見出し画像

臨時ミニ企画展 戦争と無線通信

はじめに

タイトル写真は第2次世界大戦中の米軍の無線施設です。無線は、ごく初期のころから軍事利用とともに発展してきました。「ラジオと戦争」は当館の大きなテーマです。国境紛争や内戦など、戦争は世界各地で絶えたことはありませんが、まさか2022年にもなって大国が隣国に攻め込むという、古典的な「戦争」が始まるとは思いませんでした。ここでは、軍用無線機の歴史を中心に、戦争と無線について考えていきます。
Photograph was taken by the U.S. Army Signal Corps, photo number: GHQ SWPA SC 43 5901 by T/4 Harold Newman. (1943, from Wikipedia)

画像9

この記事は「おうち平和ミュージアム」に参加しています。

概要

開催期間:2022年3月19日(土)~戦争終結まで
     平和が戻ったら、早めに終了する予定です。
開催日:土日、祝日ゴールデンウィーク期間(5月3日~5月7日)、及び夏休み期間(8月10日から16日)
(今後の状況により臨時閉館または開催期間を変更する可能性があります。)
開館時間:午後0時から4時 (最終入館時刻 3:45)
観覧料: 大人500円、15歳以下200円 (常設展共通、小学生以下無料)

軍用無線のはじまり

20世紀はじめに無線電信が実用化されると、すぐに軍事利用が始まりました。日本でもマルコーニの成功を受けて1900(明治33)年から逓信省とともに海軍で無線機の開発が始まりました。1905(明治38)年には、国産の三六式無線機を巧みに運用して日本海海戦の勝利につなげました。

無線電信は、当初船舶無線として実用化されましたので、同じものを軍の艦艇に搭載すれば軍用無線機となりました。軍用無線機は、陸軍の地上部隊の運用にも使われるようになりました。

第1次大戦中の無線機1905
1905(明治38)年にドイツで開発された「行動無線局」

これは、火花式送信機と受信機を二輪馬車に搭載した初期の軍用無線機です。エンジン発電機を積んだ同サイズの馬車と付属品を搭載した馬車の3台セットで運用します。アンテナは軽気球またはたこを揚げて展開します。

航空機が飛ぶようになると、これにも無線機が搭載されるようになります。

航空無線機1910
アメリカの飛行船に搭載された無線機(『電気之友』第267号 1910(明治43)年より)

火花式送信機の火花による火災事故を防ぐためにマルコーニが小電力の無線機として特別に作ったもの。これは民生用ですが、第1次世界大戦(1914-18年)ではドイツのツェッペリン飛行船がドーバー海峡を渡って英国を爆撃しました。飛行船のようなのんびりした乗り物で爆撃?!と思いがちですが、100キロを超えるスピードを高空で出せた飛行船に、まだ80キロくらいしか出せず、高空まで上昇できなかった飛行機は追いつけなかったのです。

軍用無線機の発達

第1次大戦中に真空管が発明され、無線機は大きく進歩しました。1920年にアメリカでラジオ放送が始まり、家庭用のラジオセットが大量生産されるようになって無線機の生産能力も高くなりました。日米の1930年代の歩兵用軍用無線機を見てみます。

画像3
歩兵用超短波トランシーバ SCR-195 / BC-222 1938年 (U.S.A.)

米陸軍の分隊で使用した初期の携帯無線機。28-52MHzの超短波帯を使う小出力(0.1W)のトランシーバ。電池式ラジオ受信機用の真空管を2本使う簡単なもの。W140 x H200 x D220 mm の本体の下に、同じサイズの電池ケースを重ねてリュックサックに収納して背負って運用します。次に同じような目的の日本製の無線機を紹介します。

画像12
歩兵用超短波トランシーバ 94式6号無線機 (1939年)

歩兵用の小型のトランシーバ。超短波帯(25-45.5MHz)を使用し、0.2W程度の小出力で2kmほどの通信が可能です。本機は、蓋と皮ケースが失われていますが、運用するときは、ストラップがついた皮ケースに入った本体を、パネルを上にして首からかけてベルトで固定し、後ろに写っている手回し発電機または電池箱を肩にかけて立った姿勢で運用します。受信にはヘッドセットを使用し、送信には、電信の場合は内蔵の電鍵、電話の場合はのどに充てて使う咽喉送話器を使用します。VHF帯のため、アンテナは短く、1.4mの金属パイプを立て、アースは65cmのパイプを吊り下げてカウンターポイズとして使います。専用の小型双三極管UZ-30MCを使うことで、先に紹介したアメリカのBC-222より小型にまとめられています。小型な分、メンテナンスは大変そうです。

94式5号-2
九四式五号無線機(送信部)  1936(昭和11)年頃(現物は1944年)

日本軍の歩兵用小型短波送信機。双三極管UZ-12Cを1本使ったシンプルなもので、同じサイズの受信機と組み合わせて運用します。出力は1W程度と大きく、手回し発電機を電源とするため、運用にはオペレータと発電要員が必要になります。本機は肩掛けにするストラップが失われています。

日米の同じような無線機を比較すると、日本の無線機は何とも生真面目というか、細かく調整できるように作られています。また、技術的な限界からダイヤルが直読ではないなど、使い方が面倒です。それほど技量のないオペレータでも簡単に使えるようにしたアメリカの無線機と、訓練した通信兵が使う前提で作りこんだ日本軍の設計思想の差が表れています。

第2次大戦中の軍用無線機

米軍の無線機は、より軽く、よりシンプルになりました。太平洋戦争が始まってすぐの1942年、最初のHandie-Talkie が実戦投入されました。

BC-611 "Handie-Talkie" ハンディ型トランシーバ (1942年)
1992年のアマチュア用トランシーバFT-728と。写真は自衛隊用に国産化されたJBC-611F(1955年)

このトランシーバにはPress to Talk: PTT) のスイッチとアンテナ以外、操作部が全くありません。ボリュームすらなく、ロッドアンテナを引き出すと電源が入ります。周波数は内部のコイルと水晶発振器でチャンネルが固定されています。電池を入れてアンテナを引き出せばすぐに通信できます。誰でも使える電話機並みの操作性を目指したものです。

BC-611はモトローラブランドで知られるGalvin Mfg. Co, が、太平洋戦争開戦前の1940年に市販されたばかりのポータブルラジオ用のミニチュア管と小型部品を採用して短期間で開発しました。周波数は3.5-6MHzの短波帯、電波形式はAM、受信機の回路は市販のポータブルラジオに非常に近いもの。アンテナにつながる高周波増幅管に音声増幅と同じ真空管3S4を使い、送信機とするときは受信機のコンバータ管で発振/変調して高周波増幅管をファイナルとして送信します。

ケースはアルミ製で、電池込みでわずか2.5kg、高さ32cm、8cm角と、少し大きいとはいえ、片手で楽に持つことができます。出力は小さいので通信可能距離は最大1マイル(1.6km)、最前線の部隊内の通信には十分です。

第2次大戦中の軍用無線機をいくつか紹介します。

画像5
BC-342-N U.S. Army Signal Corps. 野戦用短波受信機 1943年(U.S.A.)

この所蔵品は戦後米軍から自衛隊に供与され、1970年代まで使われたもの。平和に使われたらしく、非常にきれいですが、アメリカで発見される同型機には、実戦に使われたと思われる荒れた状態のものが散見されます。

第2次大戦中に米陸軍の主力受信機として使われた10球6バンドスーパーで、家庭用の真空管ラジオほどの大きさですが、37kgもの重量があります。それもそのはず、5mm近い厚みの正面パネル、補強が入った厚い鉄板のケース、簡単にロックできるダイヤルツマミと、とにかく堅牢にできています。軍用車に搭載してオフロードを疾走しても、近くに砲弾が着弾しても大砲が発射されてもびくともしないようにできています。

マニュアルの最初には、敵に捕獲されそうになった時の破壊の方法が書いてあります。ハンマーや斧で満足に壊せない(丈夫過ぎて多分壊れません)時は、TNT火薬で爆破しろとあります。メンテナンスの最初のところには、まず「洗浄すること」とあります。泥や油にまみれ、戦闘で破損して修理に戻ってくるのでしょう。どのように使われたかがうかがえます。これは、単なるラジオで殺傷を目的としてはいませんが、まさしく戦場で使う「兵器」として作られています。

画像6
BC-348 航空機搭載用短波受信機 1942-45年 (U.S.A.)

第2次大戦中の米軍の大型爆撃機B-17、B-24、B-25、B-29、輸送機C-47(DC-3の軍用版)などに搭載された受信機です。陸軍用のBC-342と、デザインは似ていますが、設計は全く違います。航空用として、徹底的に軽量化され、ケースは肉抜きした薄いアルミでできています。大型レシプロエンジンのイグニッションノイズで妨害されないように、厳重なノイズ対策も施されています。

船舶などの民間用通信型受信機に比べると、非常にシンプルなデザインが特徴です。これは、緊迫した戦闘態勢において、操作ミスを防ぐために細かい調整個所や切り替えなどを省いてシンプルで使いやすいインターフェースを目指した設計のようです。よく使うツマミやスイッチがパネルの左側に集中しているのは、右手を電鍵を打ったりメモを取ったりするために空けておく必要があるからです。アメリカでは航空機の大量生産とともに無線機も量産され、10万台以上生産されたといわれます。日本にも航空無線機はありましたが、生産台数は多くても数千台程度で、戦力としては比較になりませんでした。

この所蔵品は、戦後、軍用機から外されて大量に放出されたうちの1台です。ベテランの日本のアマチュア無線家の手で修理されていて、現在でも使用できます。自宅でアンテナをつないで受信してみました。ランプにぼんやりと照らされたダイヤルを合わせると、現代の短波放送やアマチュア無線の交信が聞こえてきます。銘板がなく、どの部隊で使われたかはわかりません。日本に空襲に来たB-29やドイツを爆撃したB-17、空挺部隊を乗せてヨーロッパに向かったC-47のラジオオペレータが、対空砲火が聞こえる機内で、このラジオから聞こえる無線に集中していたかもしれません。

画像11
94式対空2号無線機(2型)受信機 1941年頃(一部改造、欠品あり)

BC-348とほぼ同時代の日本陸軍の航空隊用無線機。主に地上局用の短波受信機ですが、移動運用できるように作られています。バッテリーとダイナモを電源とするのはBC-348と似ています。開発された時期も近く、回路構成もよく似ていますが、生産台数は後継機の地2型を含めても米国製よりはるかに少なく、多くても数千台程度で、戦力としては比較になりませんでした。

改めてよく見ると、本来あるべきところに精度が出せず、必要もないところを無駄にクリアランスを詰めるような、量産性を考慮していない設計が散見されます。当時の家庭用ラジオを見ても、大量生産の技術が未熟で、職人仕事で現物合わせで作りこんでしまう作り方が横行していたように思います。1930年代には、技術的にはとりあえず近いレベルのものが作れるようにはなっていても、消耗戦が始まると生産能力を含めた実力差が大きく開いてしまいました。

日本の軍用無線機も1930年代には、それほど技術的なレベルの差はなかったといえますが、大量生産ができなかったことと、アメリカの真空管をはじめとしたエレクトロニクスの技術が急激に進歩したため、第2次世界大戦(1939-45年)末期には大きな差を付けられてしまいました。

第2次大戦中には、各国で原子爆弾やロケット兵器、電波兵器などの軍事技術が開発されました。莫大な戦費をかけて真空管の応用としてレーダーやコンピュータ(ENIAC:米など)、ミサイルの電子制御(V-2ロケット:独)といった技術が開発され、戦後のエレクトロニクスの発展につながりました。

戦後の軍用無線機

日本軍は1930年代の無線機で戦っていましたが、米軍は、小型真空管を使ったバックパック型のFMトランシーバ BC-1000 や、ハンディ型のトランシーバBC-611を大戦末期に投入するまでになっていました。

戦後、アメリカ・ベル研究所でトランジスタが発明され、1950年代以降、急速にエレクトロニクスが発展しました。日本ではトランジスターラジオなど、民生品への応用が盛んでしたが、アメリカではロケット制御やコンピュータなど、軍事用を目的とした応用が主でした。当然、軍用無線機もトランジスタ化され、後にはデジタル技術が入って高度化されました。

ソ連とアメリカは連合国として枢軸国と戦いましたが、戦後すぐに対立しはじめ、資本主義/民主主義陣営の「西側」と、共産主義の「東側」に分かれて対立するようになりました。両陣営が核兵器開発に邁進し、激しく対立しながらも戦争にはならない「東西冷戦」のはじまりです。

核兵器を持った超大国の戦争はなくても、両陣営の小国による「代理戦争」が起こりました。分割占領されていた朝鮮半島で、北朝鮮が南の韓国に攻め込んで始まった朝鮮戦争(1950-53年)もその一つです。朝鮮戦争はいまだに「停戦」のまま続いています。

朝鮮戦争(1950-53年)には、米軍は、AMのBC-611に代わってハンディ型のFMトランシーバ PRC-6 を実戦投入しました。

画像10
AN/PRC-6 ”Handie Talkie” FMトランシーバ

50MHz 帯のFM方式の携帯型トランシーバ。真空管を13本使い、0.25Wの定格出力で1.5kmほどの距離の通信が可能です。重量は3.5kgほどで、片手で運用することができます。軍用無線機はわずかな期間にここまで進歩したのです。PRC-6はアメリカ軍だけでなく、韓国軍やNATO軍に供与され、多くの国でライセンス生産されて1970年代まで長期間にわたって運用されました。ここに紹介したのも西ドイツ製で、6チャンネルに改良されたPRC-6.6型で、モデル末期の1976年製です。

ベトナム戦争

1960年代に入っても冷戦は続きました。戦前はフランスの植民地だったベトナム(仏領インドシナ)は、戦後第1次インドシナ戦争を経て、ソ連、中国が支援する北ベトナムと、アメリカが支援する南ベトナムの2つに分かれていました。共産化を進める東側と、共産主義国が増えることを極度に恐れたアメリカは、共に「軍事顧問団」と称する自国の軍隊を送り込みました。

1965年以降米軍が本格的に軍事介入し、その後10年にわたって泥沼の戦争となりました。米軍は、最新の兵器と延べ250万の規模の軍隊を投入し、5万以上の犠牲を払っても、1975年にサイゴンが陥落し、米軍は撤退してベトナムは共産主義政権が統一しました。

ベトナム戦争で米軍の兵士が使った無線機を紹介します。

画像7
(左)ヘルメット取付型受信機PRR-9 (右)ハンディ型送信機PRT-4U.S. Army (1968年頃)

50MHz帯のFM波を使う歩兵用のトランジスタ化された携帯送受信機です。小型の受信部をヘルメットに取り付け、渦巻き状のホーン・スピーカまたはイヤホンで受信します。小型の送信部は軽く、ポケットに入れることができます。小さくて使いやすそうですが、激戦の中でヘルメットに取り付けた受信部を紛失するという問題が多く発生しました。アメリカの戦争映画でヘルメットが脱げてしまうシーンがよくあります。俳優の顔を映すための演出かと思っていましたが、どうやらリアルなようで、あごひもをしっかり締めない習慣があるようです。

受信機を失くせば送信機だけあっても役に立たないだけでなく、敵の手に落ちれば、部隊の通信が筒抜けになります。この送信機は、周波数が固定されていて2チャンネルしかなく、変更が簡単ではないのも問題でした。実戦での問題が明らかになったため、その後あまり使われずに1990年代に多くが放出されました。周波数をきちんと調整すれば、アマチュア無線用に使うことができます。

館長のひとりごと

日頃歴史に親しんではいますが、まさかヨーロッパで、ヒトラーのポーランド侵攻を思わせるような「戦争」が起こるとは思ってもいませんでした。ラジオ博物館という立場で何かできないかという思いから、寄贈品展示コーナーをお休みして、軍用無線機を展示することにしました。

当館は家庭用のラジオがメインで、軍用無線機は専門ではないので、コレクションに紛れ込んだ程度のものしかありません。小さなガラスケース一つに日米の軍用無線機を4台並べたところでどうなるものでもないとは思いますが、ラジオ(業務無線の世界では、無線機のことをラジオと呼ぶこともあります)を通じて戦争というものに思いをはせることができないかと思います。

臨時ミニ企画展展示
展示の様子です

10年以上前になりますが、イギリス、ロンドン郊外にある空軍博物館と、陸軍のImperial War Museum を見学しました。静かに展示されている往年の爆撃機や戦車を間近に見ながら、兵器にかけたエネルギーを感じることで、戦争の狂気が伝わってきました。Imperial War Museumは、第1次大戦後にオープンした古い博物館で、1936年に現在の場所に移転したそうです。この建物が元精神病院というあたりはイギリス人のブラックユーモアでしょうか。

日本では軍事や兵器に対して素直に向き合えない雰囲気があるように思います。しかし、イギリスの軍事博物館は、祖国を侵略者から守ったという誇りに満ちています。見学したことはありませんが、ロシア(旧ソ連)の博物館も同じような雰囲気が見られるようです。

侵略者に攻め込まれた側は強いものです。ロシア人は、彼らが「大祖国戦争」と呼ぶ第2次世界大戦で、ナチス・ドイツに対してレニングラード(現サンクトペテルブルグ)で、主に包囲による飢餓によって100万ともいわれる莫大な犠牲を払いながら敵から街を守り抜いたか、よく知っているはずです。

しかし、ロシアの指導者は隣国に攻め込んでしまいました。ヒトラーと同じように首都を包囲しています。戦力に大きな差があっても、この戦争は簡単には終わらないでしょう。これからも悲劇が続くことだけは間違いなさそうです。

急ごしらえの展示のため、パンフレットやポスターも作っていません。このnoteや展示を通して、戦争を考えるきっかけになっていただければと思います。

この展示は、メインの企画展と同じ開催期間を予定していますが、平和が戻ったら早めに終了して、元の寄贈品展示コーナーに戻す予定です。残念ながら2年目に突入してしまいましたが、その日が1日も早く来ることを願っています。


いいなと思ったら応援しよう!