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100年前のラジオ「古典ラジオの世界」展

このタイトル写真、ラジオに見えますか?これはラジオ放送が始まった100年近く前の今はないアットウォーターケントというアメリカのメーカのラジオです。板の上に部品や電球のような真空管がむき出しで並べられています。こんなラジオが使われていた1920年代前半を中心とした初期のラジオのことを「古典ラジオ」または「ビンテージ・ラジオ」などと呼びます。この時代のラジオを特集した企画展の様子をお伝えします。

はじめに

この時代のラジオは、現代人から見るとずいぶん変わったものに見えます。当時は最新のハイテク製品だったのですが、現代の工業製品から失われた優雅さや余裕が感じられます。

ラジオ受信機の前身は業務無線機です。第1次大戦が終わって用がなくなった無線機の売り先として始まったのが家庭向けのラジオ放送といえます。当初の実験器具のような武骨なデザインから家庭向けの家具のデザインを取り入れた美しいものに変化していきました。

また、この時代のラジオは簡単に中を見られる構造のため、部品や配線にも「デザイン」や「美学」が感じられます。キャビネットはデザインされていても中身は実用一点張りの後の時代のラジオとはかなり異なります。

古典ラジオ展1

真空管などの初期の日本製ラジオ部品の展示。箱のデザインが時代を感じさせます。壊れやすい真空管は幾重にも真綿でくるまれ、貴重なものであったことがわかります。

最近のエレクトロニクスの進歩の速さを「ドッグ・イヤー」と呼びますが、ラジオ放送が始まる前後の1920年代も現代と負けず劣らず技術革新の激しい時代で、ラジオや部品の形は毎年のように変化し、さまざまなアイデアが試されて多種多様な製品が発売されました。

今回、放送が始まったころのラジオ、付属品、部品および関連資料を展示しました。放送が始まったころのラジオを通じて、当時の人々のラジオにかける期待や情熱を感じていただけたるような展示にしました。

今回の特別展では、昨年、ご遺族のご厚意で当館に委託いただいた日本有数のラジオコレクターである故柴山勉様のコレクションから整理、登録が完了した逸品を多数展示させていただいております。改めてこの場を借りてお礼申し上げます。

放送のはじまり

一般大衆に音楽やニュースなどを聞かせるラジオ放送を最初に行った国はアメリカです。第1次大戦後、不要になった軍用無線機や部品が市場に放出され、多くの無線技術を持った兵士が復員しました。こうした多くのアマチュアたちが手作りの実験局を運営し、アマチュア無線の交信を楽しんでいました。

こうしたアマチュアの一人に、ウェスチングハウス社に勤めていたコンラッド(Frank Conrad 1874-1941)がいました。コンラッドは会社の真空管式送信機により音楽などを送っていました。この「放送」はアマチュア仲間の人気を呼んだだけでなく、一般大衆の関心も呼び、コンラッドの放送を聴きたい顧客に鉱石ラジオを販売する者も現れ、よく売れました。

戦争が終わって失った軍需を埋め合わせる方法を模索していた同社は、ラジオ放送を実施し、多くの家庭にラジオ受信機を普及させれば大きな市場が生まれると考え、1920年、コンラッドの実験局を発展させて正式な直営放送局KDKAを設立しました。

KDKAはアメリカ政府により最初に認可された放送局となり、KDKA局の放送開始をもってラジオ放送の始まりとされています。その後放送局は1924年には500局に増え、ラジオの大量生産が始まり、200万台が普及しました。

古典ラジオ展5

初期のアメリカ製ラジオの展示です。上はRCAのラジオラ26型(1925年)、初期の段階からラジオを持ち運びたいと思った人はいたらしく、ポータブルラジオになっています。気軽に持ち運ぶには大きくて重いのですが、当時の広告にはカウボーイが馬に乗せて荒野で聴く場面が描かれています。まさにアウトドア用というところですが、実際には普及し始めた自動車で運んだのでしょう。上の箱がラジオ本体で、下の箱は家庭で使う時の電源です。乗せるとコネクタで接続されます。今のipodドックのようなアイデアがこの頃からあったのですね。下はアットウォーターケントの20A型(1924年)、タイトル写真の10A型をケースに入れたもの。ラジオが広く家庭で使われるようになると、部品がむき出しのメカニカルなものは嫌われる(掃除ができない、子供にはさわらせられない)ようになり、スマートなケースに入ったものになりました。

ラジオブームに沸いたアメリカのラジオメーカーは、競って大規模な工場を建設し、フォードが確立した大量生産方式を応用してラジオの量産に乗り出しました。当時、1モデル当たりの生産台数が10万台から数10万台という例も珍しくありませんでした。

日本では1923(大正12)年の関東大震災をきっかけに放送開始が正式に決まり、1924(大正13)年には放送施設出願が全国64件にも達しましたが、政府の方針により、公益法人に限ることとなり、東京、大阪、名古屋の三大都市に放送局設立が許可されることになりました。

1924(大正13)年11月29日に東京放送局(JOAK)、翌25(大正14)年1月10日に名古屋放送局(JOCK)、同年2月28日に大阪放送局(JOBK)が創立されました(いずれも社団法人)。

設備の遅れにより仮放送ではありましたが1925(大正14)年3月22日、東京、芝浦の仮放送所からラジオの試験放送が開始され、日本のラジオ放送の歴史が始まりました。出力はわずか220Wでした。同年6月1日からに大阪が仮放送(500W)を開始、7月12日には東京放送局が愛宕山に移り本放送を開始、7月15日に名古屋が本放送(1kW)を開始しました。

古典ラジオ展4

現代のスピーカの元となる技術を開発した米マグナボックス社のR-2B型ホーン・スピーカ(1923年)。直径が18インチ(46㎝)もあり、本来はアンプができる前の拡声器用でした。アメリカでは家庭でも使われましたが、日本ではラジオの実験放送時代に展示場などでデモ用に使われました。

最初は都市部のみのサービスエリアでしたが、本格的にラジオ放送が始まったのです。アメリカでの放送開始から遅れることわずか5年でした。このときの受信契約者はわずか5,455でした。

放送開始間もない頃の日本のラジオは7割がレシーバーで聴く鉱石受信機でした。スピーカーを鳴らせる真空管式受信機は受信機自体が高価なだけでなくA,B,C3種類の電池を必要としました。特にフィラメントを点灯するA電池に鉛蓄電池を使用する場合は充電の手間もかかり、一般大衆が簡単に使用できるものではありませんでした。

型式証明制度

放送開始直前の1923(大正12)年に公布された逓信省令「放送用私設無線電話規則」により、ラジオ受信機は逓信省の認可を受けたものとされました。技術基準は1916(大正5)年に発令された逓信省令第50号 電気用品試験規則第4条により定められ、「受信波長帯が200-250m、350-400mに限られ、電波の再放射のないもの」とされました。試験を受け、合格すると「型式証明」が与えられ、合格番号を表示することができました。

型式証明受信機は、波長切り替えが必要で、再生検波が使えないことから感度が悪い上に優秀な輸入品より高価なものでした。波長切り替えがあった理由は、300mバンド(1MHz) に、公衆無線通信(船舶電報)が割り当てられていたからです。放送用私設無線電話に与えられた聴取許可では、指定された局以外の電波を受信することが禁止されていたので、目的外のバンドを受信できない規格となっていたのです。

自作の受信機でも型式証明を受けることは可能でしたが、技術基準が厳しく、検査料が高額だったため、自作品が型式証明を受けることはありませんでした。実際には規則に合致しない多くの輸入品や手作りのラジオが使われていました。

古典ラジオ展2

非常に貴重な初期の型式証明時代のラジオの展示です。上段は河喜多研究所のエムプレス受信機と、英国製スターリングのスピーカ、下段左は日本無線電信電話(現日本無線)の単球ラジオと専用アンプ、右は東京電気(現東芝)のサイモホンA型2球式受信機です。

形骸化する型式証明制度
放送開始直後の1925(大正14)年4月18日の逓信省令第23号により中波帯の真ん中に居座っていた公衆無線通信が短波に移行することから波長切り替えが廃止された他、空中線から電波を出さない構造(高周波増幅付など)であれば再生式も許可されるようになりました。

同時に緩和措置によって型式証明のないラジオにも逓信局長が許可すれば聴取許可が与えられるようになりました。このため型式証明制度は有名無実となり、1925年10月以降、ラジオ受信機本体が試験を受けることはなくなりました。型式証明は1924年から25年にかけて64種類のラジオ、部品に与えられました。

型式証明受信機を多く製造したのは安中、日本電気、沖電気、東京電気と芝浦製作所などの大手通信機器メーカでした。型式証明制度は煩雑であったものの、官の仕様に基づいて製品を製作し、検査を受けて納品してきたこれらのメーカにとってそれほど問題はなかったようです。

しかし、これらのメーカは少量生産でコスト競争力がなく、型式証明制度という規制が有名無実となり、多くの民間企業が参入してくると価格競争力を失って放送開始後数年でラジオセットの生産から撤退しました。

型式証明制度のその後
型式証明制度はラジオについて1925年には強制力を失って、ラジオセットの型式証明を受けるものはなくなりましたが、廃止されたわけではありません。その後もスピーカやレシーバなどの用品や計測器に対しては型式証明が与えられていました。

1928(昭和3)年から開始された放送協会認定制度も、型式証明と同じ電気試験所で試験が実施されていたため、両方のマークを受けた製品も存在します (第124号、シンガーB型高声器、第151号、フラワーボックス六号型高声器)。ラジオ用品として最も遅い例として、1940(昭和15)年に沢藤SF333型レシーバが第251号の証明を受けていますが、1930年代以降に証明を受けた機器は大半がメータなどの電気計測器です。

古典ラジオ展3

日本製の無名メーカの大型ラジオ(上)と、当時一般的に使われた探り式鉱石ラジオ(下段左)下段右はアメリカ製のユニークなラジオGrebe Synchrophase MU2型、多くのツマミを連動させられる機構に特徴があります。いずれも1925(大正14)年頃。

ラジオの普及

1925(大正14)年の放送開始時にわずか5,455にすぎなかったラジオの受信契約者は、約1年後の1926(大正15/昭和元)年には39万に激増しました。同年8月には政府の方針により東京、大阪、名古屋の3放送局は1つの社団法人に再編されることになり、日本放送協会が成立しました。各放送局は東京を本部とする関東、関西、東海の支部に再編され、それぞれ中央放送局とされました。

そして、ラジオの受信者が順調に伸びるとともに、ラジオ業界への新規参入も増え、多くの中小企業がラジオ本体やラジオ部品を生産、販売するようになりました。早川徳次の早川金属工業研究所(現シャープ)もその一つです。

ラジオやラジオ部品の研究開発には高度の理論や技術が必要ですが、外国製品や先行するメーカの製品を模倣するだけなら大した技術は必要ないため、当時のラジオや部品は、簡単な機械部品や電球などを作る技術があれば、形だけ似たようなものを作ることは難しくなかったのです。

こうして、質はともかく値段の安いラジオや部品がたくさん出回り、価格が急速に低下しました。放送が始まったころ、大卒初任給に近い30-40円もしていた鉱石ラジオは、放送協会認定品の優秀品でも6円程度に、最低でも150円程度はしていた真空管式ラジオは50円も出せば買えるようになっていました。

安価なラジオが出回ることでラジオの主流はレシーバでひとりしか聞くことしかできない鉱石ラジオからスピーカが鳴る真空管式ラジオに移り、家族で楽しめる娯楽となりました。

これまで主流だった高額な舶来品や、日本の型式証明受信機メーカにとっては打撃となり、彼らは売れない在庫を抱えて製品の値下げを余儀なくされました。こうして型式証明受信機に取り組んだ大手電機、通信機メーカや舶来品はラジオ市場から撤退していきました。

古典ラジオ展6

ラジオが普及し始めた1929(昭和4)年頃の日本製のラジオとスピーカ。スピーカはユニークなデザインですが、いずれも外国製のコピーです。このラジオのデザインは座敷で使いやすいように考えられた日本独自のものです。下の部分に電池を入れるのが本来の使い方ですが、数年後にコンセントで使えるように改造され、電源が組み込まれています。

この時代の技術の進歩は激しいものでした。アメリカから5年遅れて放送が始まった関係で、アメリカでの技術革新が圧縮されて一気になだれ込んだのです。現代のものに近い紙を使ったコーン型スピーカが現れ、今までのホーン・スピーカは普及品扱いとなりました。電源は真空管の低消費電力化によって蓄電池から乾電池に移行しましたが、まだコストや交換の手間がかかることに変わりはなく、すぐにコンセントから電源を取れる交流式への移行が始まりました。

1928年から交流電源で使える真空管が発売されると、交流式ラジオ(エリミネータ―受信機)が作られるようになり、急速に普及しました。旧式の電池式ラジオを改造したものを含め、1932(昭和7)年には交流式ラジオが全体の80%を超えるようになりました。

この頃、松下電器がラジオ産業に参入し、撤退した大手メーカに代わって松下、早川などの新興中堅企業を中心とした日本のラジオ産業が形成されていくのです。

古典ラジオ展7

1930年代のユニークなラジオの展示です。通信機がそのまま家庭に入ってしまった初期の武骨で使いにくい「機械」から、インテリアにマッチする「家庭用品」に変わっていったことがよくわかります。

概要

企画展名:
「古典ラジオの世界」1920年代のラジオ 展
開催期間:
2017年3月18日―2018年1月12日

出展目録

主な展示品

ポスター

館長のひとりごと

開館から5年目の節目の年に、本格的なテーマの特別展を開こうと思いました。アンティークラジオのコレクションの王道ともいえるのは、1920年代以前の古典的なラジオです。

この企画展がどこに出しても恥ずかしくない内容となったのは、前年に委託を受けた故柴山勉さんのコレクションの存在が欠かせませんでした。柴山さんは日本でも有数のラジオコレクターでしたが、惜しくも60代で急逝されました。縁あってご遺族から膨大なコレクションの委託を受け、整理を進めてある程度作業が進んだところで5周年記念展として公開することにしました。

柴山邸で膨大なコレクションを拝見させていただいた時に、同じように博物館を開く夢を持って収集されていたことがすぐわかりました。この企画展が柴山さんのコレクションを引き継ぐ者として、その遺志をも継いで、実現したかった展示ができたとのではと思います。ご見学いただいたご遺族の方々にも喜んでいただけました。

さすがにこの時代のラジオをリアルタイムで実際に見たという方はほとんどいないために、あまり親しみや懐かしさを感じるという展示ではありませんでしたが、何とも言えない優雅さや風格を備えた初期のラジオの姿を楽しんでいただけたと思います。

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