「焼け跡のラジオ」展(開催中の企画展)
見出し画像

「焼け跡のラジオ」展(開催中の企画展)

終戦直後、空襲で多くの大都市が焼け野原になり、衣食住にも事欠く大変な時代に、大切な娯楽としてラジオを楽しみました。何もかも不足した時代にもラジオは作り続けられました。この企画展ではこの時代の、一見みすぼらしいラジオを通して復興に取り組んだ日本人の姿を伝えようと思います。

概要

開催期間:2021年4月3日(土)~2021年12月12日(日)
開催日:土日、祝日及び夏休み期間(8月7日から17日)
(今後の状況により臨時閉館または開催期間を変更する可能性があります。)
開館時間:午後0時から4時 (最終入館時刻 3:45)
観覧料: 大人500円、15歳以下200円 (常設展共通、小学生以下無料)

はじめに

太平洋戦争の敗戦から75年を超えました。実際の戦争を知る人が少なくなる中、私たち、戦争を知る祖父母から直接話を聞いた世代は、後の世代にそのことを伝えていかなくてはなりません。

終戦直後、空襲で多くの大都市が焼け野原になり、衣食住にも事欠き、季節が変わるごとに物価が倍になるという、信じがたいハイパーインフレに襲われていました。加えて外国に占領されて今までの価値観をひっくり返されるという過酷な状況は、現代を生きる私たちには想像もできません。しかし、私たちの親や祖父母の代の日本人はこの時代を生き抜き、日本は復興を果たしていったのです。

数少ない娯楽としてラジオはすぐに復興を始めました。この時代のラジオはけっして立派なものではありませんが、何もかも足りない時代にとにもかくにも形にしてラジオを生産していたというだけでも大変なことだったと思います。設計、製造に携わった技術者たちの戦後の新しい時代にかける思いが伝わってくるように思います。

当館は、この時代(昭和21(1946)年から昭和24(1949)年頃まで)のラジオを多数所蔵しています。一見みすぼらしいラジオ、粗末な紙に刷られた薄い雑誌などから、この時代の日本人の力強さ、復興への息吹を感じていただければと思います。

敗戦から復興へ -連合国占領下のラジオー

敗戦から占領へ

1945年8月15日、ポツダム宣言受諾を告げる昭和天皇の声がラジオから流れました。これにより国民は日本の敗戦を知ることになりました。この放送は海外放送を通じて全世界に流れ、太平洋戦争は終結を迎えました。同年9月2日、日本は降伏文書に調印し、連合国の占領下に置かれることになりました。

日本を民主化するために占領軍の占領政策の中でラジオ放送は重要視されました。日本放送協会は占領軍の監督下に置かれ、放送内容がアメリカ式の民主主義と娯楽を中心とする内容とするよう指導され、同時にラジオ放送の普及のために良質なラジオおよび真空管の増産が命令されました。

オールウェーブの解禁、スーパーの普及へ

進駐後、占領軍がきわめて早い時期に出した指令が短波受信機の解禁でした(1945年9月18日)。終戦からわずか1ヶ月、進駐軍向け放送AFRSが放送開始する1週間前のことです。短波の解禁およびラジオ増産命令に従い、ラジオ業界では普及品として高周波1段4球再生検波の国民型受信機規格が検討されるとともに、1946年春頃には多くのスーパー受信機、短波放送を聞けるオールウェーブ受信機(全波受信機といった)が発表されました。

ラジオ業界では最大手の松下が財閥指定により活動に制限を受ける中、既存のメーカだけでなく、多くの中小メーカが乱立しました。また、軍需生産を止められた電機、通信機などの大企業、自動車、精密機器などの異業種からも生き残りをかけて参入してきました。異業種から参入したメーカのセットにはデザインや構造がユニークなものも多く、興味深いものです。

写真4-11662-front

東芝の戦後1号機の一つ。3バンドの高級全波受信機です。東芝は終戦まで真空管メーカに徹して、自社ではほとんどラジオを作りませんでしたが、戦後は背に腹は代えられずに各工場が独自にラジオを生産するようになりました。この機種には試作も含めて少なくとも4種類のデザインのバリエーションがあることが確認されています。

松下(現パナソニック)や早川(現シャープ)などの戦前からの大手に比べると、大企業であっても新規参入組の生産規模ははるかに小さく、三菱や日立などの新規参入した大企業の製品は、多くが利益率の高い高級機に絞った商品構成となっています。

短波の解禁により多くの全波受信機が発表されましたが、実際には高価すぎてすぐに普及することはありませんでした。生産の大半は国民型受信機でしたが、1948年になると中波のみの比較的安価なスーパーラジオが発表されるようになります。しかし、普及するのは民放が開局する1950年代に入ってからのことです。

画像2

早川電機の戦後1号機と思われる型番不明のラジオです。ダイヤルは戦後風のデザインになっていますが、それ以外は戦時中の局型123号受信機そのものです。このラジオは不思議な品物です。本来の回路は完全に改造されているのに箱に貼ってある回路図は元のまま。本来なら出荷検査を受けないと貼れないはずの「局型受信機標章」も付いています。後から誰かが改造したという感じではありません。
ここからは推理となりますが、終戦のころ、局型用の真空管は極端に不足していました。たぶんこの機械は真空管がない状態で出荷検査を受けたのでしょう。そしてそのまま在庫になっていた。そして戦争が終わって、すでに戦時中の遺物になっていた局型受信機を工場のラインで分解し、入手できる部品を使って再組立してダイヤルだけは戦後風のものにして完成させたのではないかと思います。

展示1

左上の、ポータブルラジオは1948年のアメリカ製(Zenith "Trans Oceanic") 。手にぶら下げて持ち運ぶにはちょっと大きいこのラジオは、なんとクルーザーや軽飛行機に持ち込んでラジオを楽しむためのもの。こんなものを大量生産してしまうくらい豊かな国と戦争をしてしまったのです。下段の同時期の日本製ラジオのなんと哀れなことか。右上は同じ敗戦国、ドイツの普及型ラジオ。戦前の国民型受信機からナチスのマークを削除しただけのものです。

ラジオの戦後復興

戦災で多くのラジオが失われ、また、部品の不足から故障したままのラジオもたくさんありました。膨大なラジオやラジオ部品の市場が存在したのです。そして、軍需生産を担っていた多くの大企業は仕事を失って平和産業への転換を求められていました。NECや日立のような電気、通信機メーカからキャノン、トヨタ自動車などの異業種まで、多くの大企業がラジオ市場に参入しました。

技術と商才に恵まれた一部の技術者は、自ら起業し、ラジオや部品の生産に参入しました。この中から急成長したのがソニーやカシオであり、片岡電気(現アルプスアルパイン)などの部品メーカです。

膨大な軍事費の影響で戦後、日本は急激な悪性インフレに襲われました。1949(昭和24)年、インフレ抑制のための強力な金融引き締めが行われた結果、インフレは止まったものの激しいデフレで深刻な不況に陥りました。ラジオの需要は一気に半減し、戦後参入した中小企業や、体力の弱い中堅メーカの多くが倒産しました。

写真34-11766-front

フタバスーパー級国民型受信機(1948年)双葉電機。普及価格帯を狙った5球スーパーですが、新製品が普及するまで、メーカのほうが持ちませんでした。同社はドッジライン不況の中、1950年に倒産しました。双葉電機(創業時は二葉商会)は大正時代に「ナショナル」のブランドでラジオを作り始め、昭和初期に松下電器と合弁でラジオメーカを起こした際に家電でナショナルを使っていた松下にブランドを譲渡したという因縁があります。

民間放送の開局が確実になると、性能の悪い再生式受信機の買い控えが発生し、技術力のないメーカの多くが脱落しました。その中で松下やシャープなどの大企業のシェアが高くなり、ラジオというレッドオーシャンに参入しなかった東京通信工業(現ソニー)は、テープレコーダーという新商品で成長のきっかけをつかんでいました。こうしてその後の高度成長へと続く基盤が作られたのです。

アマチュアが輝いていた時代

戦後、ラジオは家庭の娯楽として大きな位置を占めましたが、戦時下の部品不足の中で酷使されたラジオは故障したものが多く、また、戦災で焼失したものも多く、不足していました。多くのメーカが戦後ラジオ生産に乗り出しましたが、真空管を中心とする資材が不足し、激しいインフレで新品のセットは高価で、庶民には手が出ませんでした。

この頃、軍需産業や軍隊で無線技術を習得した技術者や理工系の学生など、多くのアマチュアやセミプロがラジオの製作、修理に取り組みました。故障したラジオの修理やラジオ商などの依頼でラジオや電蓄を組み立てるのはアマチュアにとって良いアルバイトになりました。

彼らは、頼まれてラジオを作るだけでなく、自身の楽しみとしてもラジオを組み立てました。特に、アマチュア無線が禁止されたままの状況で、ハムを目指すものは短波受信のための全波受信機を自作しました。

写真24-11027-2-front

この手作りの木箱に入ったラジオは、1948年頃に館長の父がラジオの修理で得た小遣いで部品を買い集めて組み立てた2バンド5球スーパーです。こんな外観になったのも、市販のキャビネットが高価な割に貧弱で音が悪かったので丈夫なスピーカーボックスを手作りしたからとのこと。スピーカのネットには着物の端切れが使われています。アマチュアの自家用ラジオはこのように格好を気にしないものがたくさんあります。

東京では、もともとラジオ卸商があった秋葉原駅付近の焼け跡に、軍が放出したラジオ部品やジャンクを売る露店が並ぶようになりました。当時は地名から「神田」の露店街と呼ばれましたが、現在の秋葉原電気街の始まりです。
 
こうしたラジオ・アマチュアのために多くのラジオ雑誌やラジオ修理の解説書が発行されました。大正時代から続く『無線と実験』、戦前の『ラジオ科学』を起源とする『電波科学』、戦後派の『ラジオ技術』『ラジオ科学』『ラジオと音響』、初心者向けの『初歩のラジオ』などが代表的なものです。アマチュアたちは粗末な紙に刷られた薄い雑誌を愛読し、中には自作した成果を投稿する事もありました。

メーカが弱体化し、高額の物品税でメーカ品が割高だったために、アマチュアの組立品に価格競争力がある時代でした。また、物資の不足が深刻だったために、ありあわせの部品を工夫して使う知恵が求められました。

貧しく、厳しい生活ではあったが、戦後の開放感の中でアマチュアが最も生き生きしていた時代といえるでしょう。

出展目録

主な展示品

ポスター

館長のひとりごと

終戦直後は、当館のコレクションの中でも最も充実している時代です。それというのも、実家の物置になっていた屋根裏部屋には、埃まみれのラジオの残骸や真空管、工具などがたくさん残っていました。父が若い頃に使ったものです。その中に薄い、粗末な紙に刷られた終戦直後のラジオ雑誌の束がありました。この雑誌に触れて古いラジオに興味を持ち、父に教わりながらこの部屋に残っていた部品をかき集め、4球再生式受信機を組み立てたのが、アンティークラジオとの付き合いのはじまりでした。

また、この時代の粗末な雑誌の記事からは、物のない大変な時代の中から這い上がろうとするバイタリティや、どことなく明るい空気を感じました。まだ20代の若者だった父も軍隊から帰って、焼け跡に建てたバラック小屋の中でラジオの修理で小遣いを稼ぎながらラジオ作りを楽しんでいたのです。

今、「戦後」が必要以上に低く評価されているように思います。あらゆるものが変化し、ものが何もない時代に必死に努力した人たちがいたからこそ、現代のそれなりに豊かな日本があるのではないでしょうか。どん底の時代に作られた製品、資料を直視することで、先進国へと発展した日本の原点の一つを見つめ直したい、そんな思いでこの企画展を構成しました。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
ありがとうございます。うれしいです。
日本でラジオ放送が始まって95年を超えました。当館では日本製のラジオを中心にオーディオ機器など歴史的に貴重な製品及び関連資料を、放送の歴史の流れに沿って分類、整理してネット及び長野県松本市の博物館で公開しています。タイトル写真は展示室の様子です。