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「焼け跡のラジオ」展

終戦直後、空襲で多くの大都市が焼け野原になり、衣食住にも事欠く大変な時代に、大切な娯楽としてラジオを楽しみました。何もかも不足した時代にもラジオは作り続けられました。この企画展ではこの時代の、一見みすぼらしいラジオを通して復興に取り組んだ日本人の姿を伝えようと思います。

はじめに

太平洋戦争の敗戦から75年を超えました。実際の戦争を知る人が少なくなる中、戦争を知る祖父母から直接話を聞いた世代は、後の世代にそのことを伝えていかなくてはなりません。

終戦直後、空襲で多くの大都市が焼け野原になり、衣食住にも事欠き、季節が変わるごとに物価が倍になるという、信じがたいハイパーインフレに襲われていました。加えて外国に占領されて今までの価値観をひっくり返されるという過酷な状況は、現代を生きる私たちには想像もできません。しかし、私たちの親や祖父母の代の日本人はこの時代を生き抜き、日本は復興を果たしていったのです。

数少ない娯楽としてラジオはすぐに復興を始めました。この時代のラジオはけっして立派なものではありませんが、何もかも足りない時代にとにもかくにも形にしてラジオを生産していたというだけでも大変なことだったと思います。設計、製造に携わった技術者たちの戦後の新しい時代にかける思いが伝わってくるように思います。

当館は、この時代(昭和21(1946)年から昭和24(1949)年頃まで)のラジオを多数所蔵しています。一見みすぼらしいラジオ、粗末な紙に刷られた薄い雑誌などから、この時代の日本人の力強さ、復興への息吹を感じていただければと思います。

敗戦から復興へ -連合国占領下のラジオー

敗戦から占領へ

1945年8月15日、ポツダム宣言受諾を告げる昭和天皇の声がラジオから流れました。これにより国民は日本の敗戦を知ることになりました。この放送は海外放送を通じて全世界に流れ、太平洋戦争は終結を迎えました。同年9月2日、日本は降伏文書に調印し、連合国の占領下に置かれることになりました。

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敗戦の大転換を象徴する資料の一つ。このラジオ雑誌は敗戦の前に編集され、発売は戦後になりました。このため、電波兵器に関する記事と、終戦についての編集後記が同居するという結果になりました。印刷して折りたたんだだけで製本されずに発売されたという形態も、終戦近くの絶望的な状態を物語っています。展示しているのは現在も続く『MJ無線と実験』が記念に復刻したものです。

日本を民主化するために占領軍の占領政策の中でラジオ放送は重要視されました。日本放送協会は占領軍の監督下に置かれ、放送内容がアメリカ式の民主主義と娯楽を中心とする内容とするよう指導され、同時にラジオ放送の普及のために良質なラジオおよび真空管の増産が命令されました。

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敗戦から1ヶ月で再開された英会話講座のテキストと、放送協会の機関誌『放送』の戦後復刊第1号です。解放されたばかりの共産党関係者も寄稿する天皇制や民主主義に関する記事が並ぶ中で、興味深い巻頭言のページを展示しました。一言でまとめると「戦争中は悪い夢を見ていた」という内容です。協力していたと書けば戦犯に問われかねない状況を考慮しても、これは実感だったのではないでしょうか。

戦後復刊第1号の雑誌や週刊誌の巻頭言や編集後記だけを集めて研究したら面白いのではと思います。

オールウェーブの解禁、スーパーの普及へ

進駐後、占領軍がきわめて早い時期に出した指令が短波受信機の解禁でした(1945年9月18日)。終戦からわずか1ヶ月、進駐軍向け放送AFRSが放送開始する1週間前のことです。短波の解禁およびラジオ増産命令に従い、ラジオ業界では普及品として高周波1段4球再生検波の国民型受信機規格が検討されるとともに、1946年春頃には多くのスーパー受信機、短波放送を聞けるオールウェーブ受信機(全波受信機といいました)が発表されました。

ラジオ業界では最大手の松下が財閥指定により活動に制限を受ける中、既存のメーカだけでなく、多くの中小メーカが乱立しました。また、軍需生産を止められた電機、通信機などの大企業、自動車、精密機器などの異業種からも生き残りをかけて参入してきました。異業種から参入したメーカのセットにはデザインや構造がユニークなものも多く、興味深いものです。

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東芝の戦後1号機の一つ。3バンドの高級全波受信機です。東芝は終戦まで真空管をメーカ各社に供給する立場上、自社ではほとんどラジオを作りませんでしたが、戦後は背に腹は代えられずに各工場が独自にラジオを生産するようになりました。小向工場が作ったこの機種には試作も含めて少なくとも4種類のデザインのバリエーションがあることが確認されています。

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こちらは東芝の柳町工場が作った国民型ラジオ。一見スピーカがないように見えますが、底板に下向きに付いています。それほど小型になるわけでもなく、デザイン的に成功しているとも思えず、ラジオの故障が多い中で整備性が非常に悪くなるこの形に何のメリットを感じたのか、理解できない珍品です。

松下(現パナソニック)や早川(現シャープ)などの戦前からの大手に比べると、大企業であっても新規参入組の生産規模ははるかに小さく、三菱や日立などの新規参入した大企業の製品は、多くが利益率の高い高級機に絞った商品構成となっています。

短波の解禁により多くの全波受信機が発表されましたが、実際には高価すぎてすぐに普及することはありませんでした。生産の大半は国民型受信機でしたが、1948年になると中波のみの比較的安価なスーパーラジオが発表されるようになります。しかし、普及するのは民放が開局する1950年代に入ってからのことです。

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早川電機の戦後1号機と思われる型番不明のラジオです。ダイヤルは戦後風のデザインになっていますが、それ以外は戦時中の局型123号受信機そのものです。このラジオは不思議な品物です。本来の回路は完全に改造されているのに箱に貼ってある回路図は元のまま。本来なら出荷検査を受けないと貼れないはずの「局型受信機標章」も付いています。後から誰かが改造したという感じではありません。
ここからは推理となりますが、終戦のころ、局型用の真空管は極端に不足していました。たぶんこの機械は真空管がない状態で出荷検査を受けたのでしょう。そしてそのまま在庫になっていた。そして戦争が終わって、すでに戦時中の遺物になっていた局型受信機を工場のラインで分解し、入手できる部品を使って再組立してダイヤルだけは戦後風のものにして完成させたのではないかと思います。

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左上の、ポータブルラジオは1948年のアメリカ製(Zenith "Trans Oceanic") 。手にぶら下げて持ち運ぶにはちょっと大きいこのラジオは、なんとクルーザーや軽飛行機に持ち込んでラジオを楽しむためのもの。こんなものを大量生産してしまうくらい豊かな国と戦争をしてしまったのです。下段の同時期の日本製ラジオのなんと哀れなことか。右上は同じ敗戦国、ドイツの普及型ラジオ。戦前の国民受信機からナチスのマークを削除しただけのものです。

下段左は日立の1号機の国民型受信機。質実剛健な同社らしく、頑丈に作ったのは良かったものの売れず、1948年にはラジオから撤退してしまいます。

下段右はビクターの4球受信機。木製の平凡なデザインなのにペンキで塗りつぶしてある不思議なデザイン。これは、同社が中国大陸向けに製造した華北標準型第十三号受信機(1944年)のキャビネットを流用したもの。このキャビネットは本来流用してはならないものだったのではないでしょうか(戦時賠償物資の横流しに問われる可能性)。中国向けに作られたキャビネットを流用したことを隠すために、奇妙な塗装が施されたと思われます。中国向けのマークが残ったまま流用した某社は、GHQの手でお取りつぶしになっています。

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左は日本の無線機メーカの元祖ともいえる安立電気の製品。パネルにツマミの側面が出たトランジスタラジオのようなユニークなデザインは、ツマミを外さなくてもシャーシを後ろに取り出せるようにするためのアイデア。いかに当時ラジオの故障が多かったかわかります。同社も真空管不足の中で製品を完成させられず、真空管の無いラジオを給料代わりに現物支給したとのことです。

右は鐘紡が戦時下の業態転換で設立した通信機会社が長野県に疎開した工場の製品。戦後、疎開工場は本社から見放され、自活が求められました。そこで同社は地元の浅間山にちなんで「アサマ」ブランドでラジオを生産しました。

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三菱電機もラジオに進出しました(右)。最初に部品としてのスピーカーからスタートし、財閥解体の関係で「三菱」を表に出せない時代だったために「ダイヤトーン」をブランドにしました。ダイヤトーンは後に三菱のステレオのブランドで有名になります。

左は電力事情が悪くて電圧が下がってしまうために使われたステップアップトランスです。電力会社に認められていなかったこのような製品は普通、中小の町工場が手掛けるものでしたが、これはなんとシャープの早川が作ったものです。

ラジオの戦後復興

戦災で多くのラジオが失われ、また、部品の不足から故障したままのラジオもたくさんありました。膨大なラジオやラジオ部品の市場が存在したのです。そして、軍需生産を担っていた多くの大企業は仕事を失って平和産業への転換を求められていました。NECや日立のような電気、通信機メーカからキャノン、トヨタ自動車などの異業種まで、多くの大企業がラジオ市場に参入しました。

技術と商才に恵まれた一部の技術者は、自ら起業し、ラジオや部品の生産に参入しました。この中から急成長したのがソニーやカシオであり、片岡電気(現アルプスアルパイン)などの部品メーカです。

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フタバスーパー級国民型受信機(1948年)双葉電機。普及価格帯を狙った5球スーパーですが、新製品が普及するまで、メーカのほうが持ちませんでした。同社はドッジライン不況の中、1950年に倒産しました。双葉電機(創業時は二葉商会)は大正時代に「ナショナル」のブランドでラジオを作り始め、昭和初期に松下電器と合弁でラジオメーカを起こした際に家電でナショナルを使っていた松下にブランドを譲渡したという因縁があります。

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真ん中は米RCAの1940年の小型ラジオです。戦争で途絶えたアメリカの情報が戦後、GHQの手で一気に入ってきました。左は1948年に松下がアメリカ製品をコピーしたもの。アメリカ製はプラスチック(ベークライト)製ですが、松下は一所懸命に木で似たような形を作っています。日本製の大きな部品を詰め込んだので中はパンパンになっています。アメリカにあこがれ、アメリカのような豊かな社会が来ることを見越して売れるはずもない小型ラジオを製品化した松下は、やはり先を見ていたのでしょう。

右は最初期の日本製ポータブルラジオです(中島無線製)。アメリカ製品を参考に見様見真似で作った感じが良く出ています。大手メーカーは家庭用ラジオだけで手いっぱいで、ポータブルラジオやカーラジオのようなニッチな製品は、中小のベンチャーが手掛けていました。後に大量にアメリカに輸出されることになります。

アマチュアが輝いていた時代

戦後、ラジオは家庭の娯楽として大きな位置を占めましたが、戦時下の部品不足の中で酷使されたラジオは故障したものが多く、また、戦災で焼失したものも多く、不足していました。多くのメーカが戦後ラジオ生産に乗り出しましたが、真空管を中心とする資材が不足し、激しいインフレで新品のセットは高価で、庶民には手が出ませんでした。

この頃、軍需産業や軍隊で無線技術を習得した技術者や理工系の学生など、多くのアマチュアやセミプロがラジオの製作、修理に取り組みました。故障したラジオの修理やラジオ商などの依頼でラジオや電蓄を組み立てるのはアマチュアにとって良いアルバイトになりました。

彼らは、頼まれてラジオを作るだけでなく、自身の楽しみとしてもラジオを組み立てました。特に、アマチュア無線が禁止されたままの状況で、ハムを目指すものは短波受信のための全波受信機を自作しました。

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この手作りの木箱に入ったラジオは、1948年頃に館長の父がラジオの修理で得た小遣いで部品を買い集めて組み立てた2バンド5球スーパーです。こんな外観になったのも、市販のキャビネットが高価な割に貧弱で音が悪かったので丈夫なスピーカーボックスを手作りしたからとのこと。スピーカのネットには着物の端切れが使われています。アマチュアの自家用ラジオはこのように格好を気にしないものがたくさんあります。

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アマチュアが手作りした小型のポータブルラジオ。放出された日本軍が無線機に使った電池用真空管を使用しています。木箱やループアンテナの枠もすべて手作りです。アメリカ製ポータブルラジオに刺激を受け、頻発した停電対策という実用性も含めて、アマチュアの間でポータブルラジオの自作が話題になりました。しかし、このような特殊な電池用真空管は都会でしか手に入らず、地方ではこのようなラジオをつくることは困難だったようです。

東京では、もともとラジオ卸商があった秋葉原駅付近の焼け跡に、軍が放出したラジオ部品やジャンクを売る露店が並ぶようになりました。当時は地名から「神田」の露店街と呼ばれましたが、現在の秋葉原電気街の始まりです。
 
こうしたラジオ・アマチュアのために多くのラジオ雑誌やラジオ修理の解説書が発行されました。大正時代から続く『無線と実験』、戦前の『ラジオ科学』を起源とする『電波科学』、戦後派の『ラジオ技術』『ラジオ科学』『ラジオと音響』、初心者向けの『初歩のラジオ』などが代表的なものです。アマチュアたちは粗末な紙に刷られた薄い雑誌を愛読し、中には自作した成果を投稿する事もありました。

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終戦直後のラジオ修理解説書と雑誌(1947-48年)

メーカが弱体化し、高額の物品税でメーカ品が割高だったために、アマチュアの組立品に価格競争力がある時代でした。また、物資の不足が深刻だったために、ありあわせの部品を工夫して使う知恵が求められました。

貧しく、厳しい生活ではあったが、戦後の開放感の中でアマチュアが最も生き生きしていた時代といえるでしょう。

終戦直後の混乱から復興へ

窮乏と混乱が続いた戦後ですが、1948年以降少しづつ落ち着きを取り戻し、本格的な復興へと向かっていきました。ラジオも戦災や部品不足による圧倒的に不足に対する需要にこたえて、作れば売れるという時代から、安くて良いものが求められるまともな時代へと変わっていきました(激しいインフレで高くなりすぎて買えなくなったという事情もあります)。

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何とも奇妙なデザインの国民型受信機(ナナオラ 4M-26型)。中身はこの記事の最初の方で紹介した国民型受信機と同じですが、ダイヤルとスピーカーグリルの形を工夫しています。戦時中のままのようなデザインでも売れた時代から、目先を変えていかないと売れなくなったことを示しています。

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デザインやバリエーションが豊かになり、色彩も少し明るいものが目立ってきた1949年から50年頃のラジオの展示です。東芝(左上)。ゼネラル(右下:現富士通ゼネラル)という、戦後大きなシェアを握る2社の普及型ラジオを展示しました。右上は自動車の生産を禁止されたトヨタ自動車が作った漁船用ラジオです。当時は船舶無線機はおろか、漁師の自宅にもラジオがないということから天候の急変による小型漁船の遭難が多く、無線機は無理でも船にラジオを付けて気象通報や天気予報を聞くようにすることが勧められました。

復興と民間放送の開始という、ラジオにはプラスになりそうな状況も実は平和産業転換のために進出した大企業や新規参入した中小メーカには厳しい時代になりました。1949(昭和24)年、インフレ抑制のための強力な金融引き締めが行われた結果、インフレは止まったものの激しいデフレで深刻な不況に陥りました。ラジオの需要は一気に半減し、戦後参入した中小企業や、体力の弱い中堅メーカの多くが倒産しました。

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現在はカーオーディオのメーカとなっているクラリオン(当時は帝国電波)のポータブルラジオ。同社は元々電池式ラジオやポータブルなどの特殊なラジオを得意とする2社が戦時中に合併してできました。戦後の早い段階でレッドオーシャンとなっていた家庭用ラジオに見切りをつけて自動車用ラジオとポータブルラジオに集中したのが生き残れた理由でしょう。

民間放送の開局が確実になると、性能の悪い再生式受信機の買い控えが発生し、技術力のないメーカの多くが脱落しました。その中で松下やシャープなどの大企業のシェアが高くなり、ラジオというレッドオーシャンに参入しなかった東京通信工業(現ソニー)は、テープレコーダーという新商品で成長のきっかけをつかんでいました。こうしてその後の高度成長へと続く基盤が作られたのです。

概要

開催期間:2021年4月3日(土)~2021年12月12日(日)
開催日:土日、祝日及び夏休み期間(8月7日から17日)
開館時間:午後0時から4時 (最終入館時刻 3:45)
観覧料: 大人500円、15歳以下200円 (常設展共通、小学生以下無料)

出展目録

主な展示品

ポスター

館長のひとりごと

終戦直後は、当館のコレクションの中でも最も充実している時代です。それというのも、実家の物置になっていた屋根裏部屋には、埃まみれのラジオの残骸や真空管、工具などがたくさん残っていました。父が若い頃に使ったものです。その中に薄い、粗末な紙に刷られた終戦直後のラジオ雑誌の束がありました。この雑誌に触れて古いラジオに興味を持ち、父に教わりながらこの部屋に残っていた部品をかき集め、4球再生式受信機を組み立てたのが、アンティークラジオとの付き合いのはじまりでした。いわば終戦直後のラジオが私のラジオコレクションの原点であったわけです。

この時代の粗末な雑誌の記事からは、物のない大変な時代の中から這い上がろうとするバイタリティや、どことなく明るい空気を感じました。まだ20代の若者だった父も軍隊から帰って、焼け跡に建てたバラック小屋の中でラジオの修理で小遣いを稼ぎながらラジオ作りを楽しんでいたのです。

今、「戦後」が必要以上に低く評価されているように思います。アメリカに魂を抜かれてすっかり軟弱になって戦前の良いところがなくなったように言う方もいますが、あらゆるものが変化し、ものが何もない時代に必死に努力した力強い日本人がいたからこそ、現代のそれなりに豊かな日本があるのではないでしょうか。どん底の時代に作られた製品、資料を直視することで、先進国へと発展した日本の原点の一つを見つめ直したい、そんな思いでこの企画展を構成しました。

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