手作りラジオの世界「ラジオをつくる」展
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手作りラジオの世界「ラジオをつくる」展

窓から涼しい風が入る晩夏の夜、はんだごてを握りしめてラジオの組み立てに取り組む少年。終戦直後、1947(昭和22)年のラジオ雑誌の表紙です。自分で組み立てたラジオから放送が聞こえた時のよろこびは何事にも代えがたいものがあります。放送が始まった頃からの「手作りのラジオ」を展示することでものづくりの楽しさをお伝えしたいと思います。
(画像出典:ラジオ科学1947年10月号表紙:部分)

はじめに

ラジオの動作原理を理解するには高度な知識が必要で、たいへんむずかしいものですが、しかし、ラジオを作ることはそれほどむずかしくはありません。複雑なラジオでも部品さえ入手できれば、ねじ止めやはんだ付けなどの比較的習得が容易な技術のみで組み立てられます。

ラジオは、高度なハイテク機器でありながら、自ら組み立てて楽しめるという特徴を持っていました。戦後の一時期、自作のラジオが商品として流通したこともありましたが、市販のラジオが容易に購入できるようになっても、ラジオの自作は趣味として一定の支持を受けてきました。

自ら組み立てたラジオから放送が聞こえた感動から、多くの青少年が科学者や技術者を目指しました。

今回、放送が始まったころからの自作ラジオと関連資料を展示するとともに、2014年に寄贈いただいた松本市の初期のアマチュア局JA0EA局の資料を展示しました。

手作りラジオの歴史

放送が始まった1920年代前半、ラジオは「つくる」ものでした。ラジオの完成品はもちろん、その部品も大変高価なものでした。ラジオの主要な部品であるコイル、バリコン、トランスといった部品は電線やアルミ板、エボナイトなどの板、ねじや金属パイプといった、素材さえ入手できれば手間はかかりますが作ることができました。探り式の鉱石ラジオであれば、レシーバ以外は全て部品から手作りすることができたのです。この時代は多くのアマチュアが手作りのラジオで放送を楽しみました。

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上段はアメリカ製の板の上に部品を並べて作った1920年代前半のラジオの展示です。パン生地をこねる板を雑貨屋で買ってきて作ったことから「ブレッドボードラジオ」と呼ばれます。「ブレッドボード」という言葉は現代でも実験用の基板を指す用語として使われています。
下段は日本製の初期の鉱石ラジオです。左はボール紙の箱に入れられ、右のラジオはツマミの位置が不ぞろいで手作りの味が出ています。

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この展示品は1930年代の手作りのラジオです。このラジオは戦後、多くの電蓄の製作記事を雑誌に執筆した松浦一郎氏が若いころに組み立てたものをご遺族から寄贈いただいたもの。良い音にするために多くの改良が施されています。

1930年代以降、ラジオが安価になると自作ブームは下火になり、戦時中はラジオを作る余裕などありませんでした。ラジオの自作がもてはやされたのは終戦直後です。多くのラジオが焼失し、残ったものも故障で使えないものが多かったこの時代、多くの青少年がラジオ製作や修理に取り組みました。中古の部品を闇市で買い、近所の老朽化したラジオを修理すると良いアルバイトになりました。この動きに対して多くのラジオ雑誌や修理指南書が刊行され、情報を提供し、東京、神田の露店などを通じてアマチュアに部品を供給するメーカや販売店が多く開業し、その後の経済成長にのって大手部品メーカやセットメーカに成長していきました。

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ラジオの技術を教える通信教育も広く実施されました。これは通信教育の実技で使われた工具箱、教材用ラジオ、工具などの展示です(1950年代)。

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ラジオ技術の通信教育のテキストの代表的なもの。上の写真の展示はこの表紙の雰囲気を再現したものです。

1960年代以降、世の中が豊かになるにしたがってラジオキットや部品が市販されるようになり、多くの青少年が学業としてではなく、趣味としてラジオ工作に取り組みました。簡単なゲルマ・ラジオから真空管ラジオやトランジスターラジオへと進むのが一般的なラジオ少年の軌跡です。その先には、より本格的なアマチュア無線やオーディオの世界がありましたが、当時はいずれも機器を自作しないと楽しむことができない状況でした。

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1960年代のラジオキットの展示。この頃になると市販のラジオが安価になり、ラジオの組み立ては純粋の趣味や、技術教育の実習としてのみ行われるようになりました。右上のゲルマラジオは後継機種が科学教材社から今でも発売されています。

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1960年代の初心者向けラジオ雑誌、製作記事をまとめた解説書、簡単なトランジスターラジオのキットの展示です。

1970年代に入ると、電子回路は真空管から半導体へと進化し、技術の高度化と小型化は手作りを困難にし、量産による電子機器のコストダウンと趣味人口の増加により、アマチュア無線やオーディオなどの趣味の世界にもメーカ製の優秀な完成品が安価に出回るようになりました。1980年代に入るとパソコンやゲームなど、ソフトウェアの比重が高まり、電子回路の自作はマイナーな趣味となりました。

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学研の学習雑誌の付録として作られたダイオードラジオ(1975年)。私が自分で組み立てたものす。私を含めて多くの小学生がこの付録ではじめてラジオの組み立てに触れたのではないでしょうか。(雑誌は学習研究社様提供)

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学研の電子ブロックEX-60型(1976年)。小さなブロックに封入された部品を挿しこんでいくだけで様々な電子回路を作れる教育玩具。高価で簡単には買ってもらえませんでした。

多くの優秀な学者やエンジニアが科学や工学に興味を持つきっかけがラジオの自作だったと語っています。ラジオはごくありふれた身近な機械ですが、自らの手で組み立てた簡単な機械で遠く離れたところから来る放送が聞けるという経験は感動的で、そこからモノづくりへの情熱や、電波や電気に対する科学的な関心が生まれてきます。その素朴な疑問や感動が、工学や科学への道を目指すきっかけとなったのではないでしょうか。

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入手しやすい部品で製作された最近の手作りラジオ(1990年代)。コイルは既製品ではなく、ボビンを手作りしてエナメル線を巻いて自作しています。現在でもこのようなラジオを作ることは可能です。

松本の初期のアマチュア無線局JA0EA資料について

1952(昭和27)年、戦争のために禁止されていたアマチュア無線が再開されました。当時松本市蟻ヶ崎在住の中学生、黒川 卓氏は無線に興味を持ち、ラジオ部品の購入に通っていた市内の小林ラジオ商会店員のJA0AM(エリアコード変更前JA1WM)甲斐沢氏などの指導を受け、1954(昭和29)年6月の無線従事者国家試験で旧2級アマチュア無線技士を同級生と小林ラジオ商会店主の小林きみ氏(当時45歳)の3名で受験し、8月、全員合格した。中学生2名と信越地区初の女性の無線従事者の誕生は大きな話題となりました。

当時はアマチュア無線用のメーカ品の無線機は存在しませんでした。 開局しようとすれば、アンテナから送受信機、関連する細かい機器まで、すべてを手作りする必要がありました。黒川氏は夏休み中に精力的に無線機の製作に取り組み、9月に開局申請しました。手作りの機器でアマチュア無線局を開局しようとする場合、本格的な無線局と変わらない工事設計書の提出と落成検査が要求されました。電波を出すには、他の通信に妨害を与えない電波の質を維持することが要求されます。落成検査では特に周囲のラジオに妨害を与えないかどうかが厳しく問われました(まだ長野県でテレビ放送は始まっていません)。この結果、11月に予備免許を付与され、落成検査の指摘事項の対策を実施した上で12月22日にアマチュア無線局免許状を受けています。当初の呼出符号はJA1WAAでしたが、間もなくエリアコードの変更があってJA0EAに変更されました。

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JA0EA局の送信機と変調器。当時地方ではラジオ用の部品しか手に入らず、送信機用の特殊な部品の入手には、ラジオ商が東京に仕入れに行く時に買ってきてもらうなど苦労があったとのことです。

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ミカンの段ボール箱に組み込まれたスピーカ(左上)。中段は左から受信機と受信機用コイル、電信の練習機。下段は付属機器(VFO) と木で手作りした!電鍵。右上の箱は周辺のラジオに妨害を与えないように当局の指示で追加を求められたノイズフィルタ。もちろん全て手作りです。

寄贈いただいた資料には、この時手作りされた無線設備一式がそのままの姿でそろっています。常に改良されながら運用するアマチュア無線局の開局当時の姿がすべて保存されていることは奇跡に近いことです。この理由は、1954年末に運用を開始したJA0EA局が、1958年に黒川氏が東北大学に進学し、仙台に転居したため運用しなくなったことによります。もし、1960年代以降も積極的に地元で運用していたら、メーカ製の機材が入り、古い無線機は解体されていたでしょう。

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大量に保存されていたQSLカード(交信証)の一部の展示。左上が自局のもの。各エリアから代表的なものを選んで展示しました。左下の「JA1YL」は、初期の女性アマチュア無線家のカード。コールサインのYLは、アマチュア無線用語で"Young Lady" を表す略語です。初期の時代はコールサインを自由に選ぶこともできたのでイニシャルなどにした局も多い。

また、資料には機材だけでなく、役所とのやり取りや手続きの書類、雑誌や書籍、ジャンク部品など、アマチュア局にあるべきすべてのものがそっくり残っています(免許状は規則に従って返納したため残っていない)。特に電波監理局との間の膨大な書類を見ると、当時の、運用にあたっての手続きの煩雑さが見て取れます。高校生が運用するアマチュア無線局でも業務用無線局と同じに扱われ、手加減はありません。これに応えて黒川氏もとても高校生とは思えないしっかりした書類を提出しています。お役所仕事といえばそれまでですが、同じ空間に電波を出す以上、プロもアマもないという電波監理局の姿勢は当然ともいえます。当局側に意図があったかどうかはともかく、このことは非常に大きな教育的効果があったと考えられます。ライセンスを受け、一定期間内に技術基準に合った設備を製作し、書類申請し、審査を受けて不備を改善し、試験運用の報告を出して検査を受ける。これは、大人の「仕事」そのものです。単に楽しみとしてラジオに取り組むだけでなく、ライセンスを得て国の基準に適合するには勉強が必要になり、より深く対象を理解し、ひいては自身の成長にもつながったのではないでしょうか。

アマチュア無線の重要な役割に、非常通信があります。資料には、ごく初期の山岳遭難非常通信訓練の貴重な記録が含まれています。長野県らしいアマチュア無線家の取組みです。

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左から無線局の申請書、業務日誌抄録(本格的な無線局なみに報告が求められていた)、北アルプスアマチュア無線山岳移動訓練の関連書類。ハンディ型の無線機などない時代、槍ヶ岳など北アルプスの山頂まで重い無線機を発電機や燃料とともに運び上げる過酷な訓練でした。

現代の高度化した無線機を自作することはほぼ不可能でしょう。また、ひところより減ったものの膨大なアマチュア局に対し、当局が細かい対応をすることも現実的ではありません。しかし、アマチュア無線に昔ながらの短波や電信の運用が許されている限り、同じように自作の無線機で開局、運用することは、電波妨害の規制が強化されたためハードルは高いものの現在でも可能です。この展示がアマチュア無線の原点を見直すきっかけになればと思います。

概要

企画展名称:
「ラジオをつくる」 –手作りラジオの世界-
開催期間:
2016年3月19日―2017年1月13日

出展目録

ポスター

館長のひとりごと

最初の企画展「ラジオ少年の時代」は、技術家庭科をテーマに選んで、趣味の手作りラジオも展示しましたが、少しマジメな内容になりました。3年後に開催したこの企画展では、趣味としての手作りラジオにフォーカスして、ラジオ工作、ものづくりの楽しさを伝えられるように考えました。

今回も父と兄、そして私が若いころに作ったラジオを展示することになり、家族総出?の展示になりました。AMラジオが縮小される動きがあるようですが、ラジオに親しむきっかけを次世代に残してほしいなと思います。

私と同世代か、少し上の「元ラジオ少年」には懐かしいものばかりで、特に男性のお客様には楽しんでいただけましたし、私も楽しく準備することができた企画展でした。

ちょうどこの展示に合わせるように地元出身の黒川様から初期のアマチュア無線局の設備、書類など一式をご寄贈いただきました。すべて自作しなければ開局できなかった初期のアマチュア無線局のすべてが保存されているタイムカプセルのような貴重な資料で、一目見て感激しました。どこにでもあるような雑誌なども含めて、すべてをばらさずに「JA0EA資料」として保存することにし、一部を特別展示として公開しました。ご本人と、同時に免許を取った同級生の方にも展示を見ていただくことができ、地元の新聞にも掲載されました。

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日本でラジオ放送が始まって95年を超えました。当館では日本製のラジオを中心にオーディオ機器など歴史的に貴重な製品及び関連資料を、放送の歴史の流れに沿って分類、整理してネット及び長野県松本市の博物館で公開しています。タイトル写真は展示室の様子です。