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「ゾルゲ事件と無線通信」展

タイトル画像はスパイの無線局の配置図です(みすず書房『ゾルゲ事件』より、部分)。ゾルゲ事件は 1933(昭和8)年、ドイツの新聞特派員を名乗って東京に潜入したリヒアルト・ゾルゲ(1895-1944)により組織されたスパイ団によって収集された機密情報がソ連に送られた事件です。この組織は 1941(昭和16)年10月18日に摘発されましたが、ドイツ大使館や日本政府中枢に深く食い込み、第二次世界大戦(特に独ソ戦)の推移に大きな影響を与えたといわれる20世紀の歴史上重要な事件です。

収集された情報を本国に送るには、さまざまな方法がとられましたが、短波送受信機による暗号通信も重要な役割を果たしました。

当館では残された数少ない文献、写真を参考に当時使用された無線機を復元しました。今回のミニ企画展では、この復元した無線機を関連資料とともに展示しました。戦争や外交には有効な情報が必要なことは現代でも変わりません。今回の展示を通じて諜報戦の一端を感じていただければと思います。

はじめに

このスパイ事件は戦争の帰趨に大きな影響を与えたという点でも、ゾルゲの人間的魅力からロマンを描き出すという点でも多くの人の興味を掻き立てる存在です。

東西対立という背景からこの事件の解釈や評価には様々な意見が存在します。今回の展示では多くの研究や議論がある「人」や「思想」「政治」から離れて、技術者の視点で無線機を復元することで、その活動の一端に触れることができるのではないかと考えました。

私どもは博物館を運営するにあたって、「公平に並べられた実物が語りかけるものを感じ取ってほしい」との思いで展示を作っています。声高に何かを主張しなくても実物の資料は私たちに語りかけてくれると考えます。

復元は実際に当時の技術者が行った方法を踏襲するようにしました。送信機のコイルは銅パイプから手作りし、受信機は中波のラジオを動作させたうえで改造しました。復元してみるとアマチュアレベルのラジオの知識があればこの無線機を作るのは簡単であることがわかりました。

しかし、実際に使用してみると(現代の法規の範囲での実験ですが)、実用にはなるものの交信は非常に難しいことがわかりました。今では多くの電波の中に埋もれてしまいますが、アマチュアの無線通信がほぼ禁止され、ノイズも少なかった当時、官憲の目を逃れて外国人が無線機を移動して短時間で準備、交信、撤収を繰り返すのは大変な作業であることが良くわかります。

ゾルゲが使ったのと同じ短波による暗号通信は最近まで使われていました。戦争や外交には有効な情報が必要なことは現代でも変わりません。今回の展示から戦時下の諜報戦の一端を感じていただければと思います。

ゾルゲ事件について

リヒャルト・ゾルゲは、1895年に帝政ロシア帝国のバクー(現在はアゼルバイジャンの首都)で、ドイツ人の父とロシア人の母の間で生まれ、3歳でベルリンに移住しました。第一次世界大戦に志願、戦争中に共産主義思想に触れ、戦後、ドイツ共産党に入党、ソビエト共産党の要人にスカウトされ、モスクワに派遣されました。

1931(昭和6)年9月18日、中国東北部、柳条湖付近での鉄道線路爆破に端を発する中華民国との紛争(満洲事変)が始まりました。ここからいわゆる「15年戦争」の時代に入ります。ヨーロッパでは1933年にナチがドイツの政権を掌握し、「ドイツ第三帝国」が成立しました。ソ連はヨーロッパ側でドイツ、アジアでは満州と国境を接する形で日本に挟まれた形になり、極東情勢の情報収集が急務となりました。

ゾルゲは1930年に中国、上海に派遣され、諜報活動を開始しました。1933年にドイツの雑誌『フランクフルター・ツァイテゥング』の通信員として日本に派遣されました。上海時代の人脈で仲間を集め、無線技士のドイツ人マックス・クラウゼン、写真撮影などを担当したユーゴスラビア人ブランコ・ド・ブーケリッチ、ジャーナリストで中国問題の専門家、尾崎秀実(おざき ほつみ)、アメリカ共産党員の画家宮城与徳らから成るスパイ団を構成し、日本とドイツの情報をソ連に送る活動を開始しました。

ゾルゲは政治学の博士号を持ち、単なるスパイとして情報を収集するだけでなく、分析する能力に優れていました。このためドイツ大使の高い信頼を得て大使館に自由に出入りし、アドバイザーとして機密情報に触れられる地位を確立しました。このスパイ団の有力な日本人メンバーであったジャーナリスト尾崎もまた、優秀な評論家として近衛内閣の嘱託という地位につき、日本の機密情報を入手することができるようになっていました。ゾルゲが送った情報は質が高く、独ソ戦の推移に大きな影響を与えました。

1941年9月以降、日本人メンバーの逮捕をきっかけに10月までにゾルゲらは逮捕されました。彼らは1942年に国防保安法、治安維持法などに違反した容疑で起訴され、ゾルゲ、尾崎には死刑判決が下されました。両名の死刑は1944年11月7日のロシア革命記念日に執行されました。

その他の有期刑のメンバーも獄死するなどしましたが、無線担当のマックス・クラウゼンとその妻のみが戦後まで生き延びました。

無線通信の概要

ゾルゲのスパイ団が収集した情報の多くは、短波による無線でソビエト当局に送信されました。送信先はハバロフスクといわれていますが、詳細は不明です。活動の指示も無線で与えられることが多かったといわれます。

日本では短波の受信が一般に認められていないうえ、アマチュア無線局もほとんど存在しませんでした。この環境で秘密の電波を発信することは極めて危険です。無線連絡は短時間で、毎回場所を変えて行う必要がありました。このため無線機は容易に持ち運べるように小型にする必要がありました。

無線機は、ソ連で訓練を受けた無線技士、マックス・クラウゼンが手作りしたものです。

情報はサイファー式暗号によって5ケタの数字に変換されて送信されました。乱数表に「ドイツ統計年鑑」の任意の数字が使われたため、このキーがなければ傍受されても解読は不可能でした。

通信にはアマチュア局に偽装するためQ符号や中国のアマチュアのコールサインを使っていました。送信場所を毎回変えたために、送受信機は分解して鞄に収めて持ち運んだということです。組み立てから準備に10分、分解して撤収するのに5分もかかりませんでした。

送信機の復元

送信機はアメリカのアマチュア無線団体ARRLのハンドブックを参考にしたといわれる自励発振式の簡単なもので、電源の整流回路はなく、交流の50Hzの電源の「ブー」という音を電鍵で断続してモールス信号とするものでした。送信波長は37-38mでした。手作りの木箱に組み立てられた送信機は、容易に部品を外してコンパクトに収納できるようになっていました。

施設が露見しないように室内に張った短いアンテナを使用したため有効な空中線電力が取れず、真空管の定格を超える高電圧をかけて無理やりパワーを出しています。このため真空管や部品の消耗が激しかったということです。大電力を出すためのトランスは重いため、送信場所にあらかじめ用意してありました。

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復元した送信機。送信機については回路図の他、不鮮明な写真が残っているだけなので復元は困難を極めました。逮捕後に作成された鑑定書の記述と写真をもとに木箱とパネルを製作し、実際に動作するように復元しました。

奥に見えるコイルは、自動車の燃料配管用の銅パイプを焼きなまして柔らかくして、ビールの小瓶に巻き付けて作ったものです。

この送信機は、手元の電鍵の金具を含めて、写真に見えるすべての金属部に800Vの高圧がかかっているという非常に危険なものです。感電の危険よりも逮捕される危険のほうを重視して、小型にすることを優先したようです。

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送信機を分解したところです。パネルは載せてあるだけで、大半の部品は箱に収納できます。トランスがなければ軽く、カバンに入れて運んだという供述もうなづけるところです。実験したところ、供述書のとおりの短時間で設置、運用、撤収できることがわかりました。

受信機の復元

受信機は家庭用の3球再生式ラジオのキャビネットを取り去り、コイルと一部の回路を変更して短波受信機に改造し、レシーバ(ヘッドホン)で聞けるようにしたものです。測定器なしで作った受信機でも、もともと同調がブロードなので実用になったようです。受信波長は45-48mでした。

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受信機の改造のベースとなったシャープ製ラジオ。幅20㎝くらいの小型ラジオです。

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中のシャーシを引き出したところ。これと同じアングルから撮った写真が残されています。復元機ができてからこのラジオを入手できたので、実際には別のラジオの残骸から復元しました。

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受信機の展示の様子です。分解したオリジナルのラジオと復元機を並べて展示しました。形は違いますが、ほぼ同じサイズで復元しました。

4球式だったラジオのシャーシをいったん分解し、AMラジオを組み立てて動作確認したうえで短波ラジオに改造する方法をとりました。

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受信機も分解すると(真空管とコイルを外すだけですが)、かなりフラットになります。

無線機オリジナル

実際に設置された本物の無線機の写真(出典不明)です。右の机に受信機(手前)と電鍵(奥)が置かれ、右側にオペレータの席があります。危険な送信機は受信機に影響しないように左側の別の机に置いてあります。

復元機よりもトランスがかなり大きいことがわかります。受信機からは短いアンテナ線がたらされ、送信機からも2本のアンテナ線(1本はアースに相当するカウンターポイズ)が伸びていることがわかります。

関連資料

入手した情報の伝達は、長時間使用できない無線だけでは不可能でした。実際には、文書を写真に撮ってフィルムを伝書使(クーリエ)が運ぶという手段が良く使われたようです。

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企画展では写真などとともに、ゾルゲが所有していて押収されたライカのカメラも展示しました。型番は不明ですが時代的にはこのⅢ-A(1936年)あたりかと思います。ドイツ大使館内で書類を複写したとされますが、この50mmレンズを付けただけでは接写は不可能です。多数の写真機材が押収されていますので、接写器具を使用したのでしょう。

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事件を伝える新聞です(復刻版:読売新聞1942年5月17日)。ゾルゲ以下主要な関係者が逮捕されたのは1941(昭和16)年10月ですが、ドイツ大使館や政府上層部に関係する有力者が摘発されたこの事件は極秘とされ、新聞発表は、起訴されるまで半年以上引き伸ばされました。

企画展の概要

企画展名:
「ゾルゲ事件と無線通信」(戦争と平和関連特別展示)
開催期間:
2017年7月19日~2015年11月17日

ポスター

館長のひとりごと

展示品が少ないので、特別展示室の一画を使う「ミニ企画展」として開催されたものですが、このテーマにはかなり思い入れがありました。

ゾルゲ事件の無線に興味を持ったのは高校生の時にNHKの「歴史への招待」という番組をみたことです。鈴木健二アナウンサーの名調子が評判になった歴史番組ですが、この中でゾルゲ事件を取り上げた時に無線機を復元したものが紹介されました。1981年10月24日放送とのことです(WIkiによる)。

これは失礼ながら高校生の目から見てもあまりレベルの高い復元には見えませんでした。番組を見た後でさっそくNHKに電話をして、何をもとに復元したのか問い合わせました。みすず書房の「現代史資料」の中の『ゾルゲ事件』を参考にしたとのことでした。

近所の図書館でこの本を探して、無線施設に関する部分をコピーして資料を入手したのが研究のとっかかりです。この時コピーしたのは第1巻(下写真)の数ページだけでした。これでは復元には至りませんでした。

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『現代史資料 ゾルゲ事件(一)』(みすず書房 1962年)
事件に関する調書などの公文書を採録した文献。ゾルゲ事件研究の基礎資料です。

それから研究は進まなかったのですが、1997年、講談社から刊行された『日録20世紀 1941年』に、鮮明な受信機の写真が掲載されました。これで受信機の詳細が判明しました。また、『現代史資料 ゾルゲ事件』は3巻あり、3巻目に無線機の詳細な「鑑定書」が掲載されていることがわかりました。この文献を古書店で入手し、一気に復元作業が進みました。

復元した送受信機は97年の夏頃には動作しました。この形式の電波は現在は違法なので、家の外に電波が出ないように短いアンテナでパワーを落とした状態で通電し、電鍵をたたくと、近くに置いた短波ラジオ(復元した受信機も動作したのですが、送信機と波長が合わなかったので別のものを使いました)からハム音を断続する「ブー・ブー」というA2電波特有のトーンが聞こえました。興味を持ってからここまでくるのに20年近く経っています。高校生がサラリーマンになって10年勤続を迎えていました。

この復元について論文にまとめ電気学会・電気技術史研究会に『ゾルゲ事件で使用された無線機の復元』として投稿し、学会誌に掲載されました。論文としては2本目になりますが、単なるラジオマニア、コレクターから研究者の視点を得るきっかけになったテーマでした。

とりあえずこれで満足していたのですが、2003年に篠田正弘監督がゾルゲ事件をテーマに映画『スパイ・ゾルゲ』を撮るということになり、私も協力することになりました。

この企画展で展示した無線機は映画に出演したものです。この映画、考証には非常なこだわりがあり、無線については非常に正確に克明に描かれています。モールス信号の音も、この復元機を動作させて、電信ができるオペレーターに打ってもらった実際の音が使われています。無線機の運用についてはこの映画を見ていただければよくわかると思います。

当館は、家庭用のラジオをメインに据えているため、軍用や業務用、アマチュア無線用などの「無線機」は基本的に対象にはしていません。しかし、この事件についてはなにか惹かれるものがありました。使われた無線機が特殊なものではなく、アマチュア的な手作り品だったからかもしれません。

このnoteでは技術的な解説は省略しました(それでも少しむずかしかったかもしれません)。くわしくは公式サイトをご覧ください。


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