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「ラジオのはじまり」展(開催中)

日本ラジオ博物館

タイトル写真は初期のラジオの説明書のアンテナの図です。2020年にアメリカでラジオ放送が始まって100年になりました。人類が電波を使い始めたのも20世紀に入った頃です。今回の企画展では、初期の無線電信からラジオのはじまりまでを取り上げます。

概要

開催期間:2022年3月19日(土)~12月11日(日)
開催日:土日、祝日ゴールデンウィーク期間(4月29日~5月5日)、及び夏休み期間(8月11日から17日)
(今後の状況により臨時閉館または開催期間を変更する可能性があります。)
開館時間:午後0時から4時 (最終入館時刻 3:45)
観覧料: 大人500円、15歳以下200円 (常設展共通、小学生以下無料)

はじめに

電波の歴史は19世紀に種がまかれ、20世紀に花開きました。コロナのせいで話題になりませんでしたが、2020年にはアメリカで世界初の放送局ができてから100年が経ちました。今回の企画展では、ラジオの原点に立ち返り、無線通信が始まったころの無線機からラジオ放送が始まったころのラジオまでの、草創期の機材を展示します。

今回の特別展では、ご遺族のご厚意で当館に委託いただいた日本有数のラジオコレクターである故柴山勉様のコレクションから整理、登録が完了した逸品を多数展示させていただいております。改めてこの場を借りてお礼申し上げます。

電磁気研究の進歩と電信の実用化

18世紀最後の年にボルタの電池が発明されてから、19世紀にはいって電気の研究が進みました。その後、電気と磁気の間の作用についての研究が進みファラデー、エルステッド、ヘンリー、アンペールといった、現在でも単位に名前を残すような研究者が活躍し、電気と磁気の相互作用が解明されていきました。

研究が進む中で、電磁石を応用した電信機が発明されました(1830年代)。まだ発電機はなく、電力としての電気の利用より早く、電池で動かせる通信への応用が実用化されました。信号のON/OFFしか伝達できない電信で使われたのがモールス符号でした。

電信は画期的な発明で、19世紀後半には海底ケーブルも実用化されて大西洋を越えた通信も可能になりましたが、電線をつなげる場所同士でないと使えないという根本的な欠点がありました。大海原を行く船舶との通信はできませんでした。船の遭難は多く、「移動体通信」の実現が望まれていました。

電波を予言する

英国の科学者、マクスウェルが、電気と磁気のふるまいを研究し、電気と磁気が作り出す場(電界と磁界)が相互に作用して進行方向に対して直角に振動する波を作り、高速で移動するという理論を打ち立て、4つの方程式(マクスウェルの電磁方程式)にまとめました。1864年のことです。

と、わかったように書いていますが、当時の学者さんにとってもマクスウェルの理論は難解でした。工学部電子工学科を出た私も、実は基礎として学ぶ「電磁気学」の単位を見事に落としまして・・・、このくらいにしときたいと思います。もっと勉強したいという方はこちら

とりあえず、この理論によって電磁波の存在が予言され、光も電磁波の一つであることが導き出されたことは大切です。ここが原点となってアインシュタインの特殊相対性理論につながっていくのです。

電波を発見する

マクスウェルの予言から20年以上たった1887年、ドイツのハインリッヒ・ヘルツの実験によって電波が存在することが実証されました。彼は小さなループアンテナにライデン瓶にためた電荷を放電し、室内に置いた受信アンテナに接続した電極間に火花が発生することを観測しました。この時検出された電波は極超短波帯でした。この帯域は現代はテレビ放送などに使われています。

ヘルツ自身は電波の実用化には全く関心がありませんでした。彼は電波が無線通信として盛んに使われる世界を見ることなく、37歳で亡くなりました。
ヘルツの名前は、その功績により、周波数の単位となっています。

マクスウェルの理論が発表された時、日本は幕末。ペリーが持ち込んだ電信機に驚いていたくらいでしたが、ヘルツの実験が発表されたころになると、明治の文明開化を進めた日本は、すぐに長岡半太郎がヘルツの実験を追試し、無線電信の開発を進めました。

火花送信機

電波の発見者、ヘルツが亡くなったあくる年の1895年、イタリアのアマチュア発明家、マルコーニは自作の無線機で無線通信に成功しました。この最初の送信機は、誘導コイルの一次側を断続さて高圧を発生させ、間隙(かんげき:スパークギャップ)の間に放電を発生させて、この火花をアンテナとアースに接続すると空中に電波を放出します。これを図にすると次の絵のようになります(これはマルコーニの無線機ではありません)。

火花式原理図

  火花送信機の接続図 (伊藤賢治『無線の知識』1924(大正13)年 より)

主要部品が誘導コイル(感応コイル、発明者の名前を取ってリュームコルフコイルともいう)です。当時のアメリカ製のものを示します。

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スパーク・ギャップを備えた誘導コイル 
(Thordarson Electric MFG Co., U.S.A. 1910年頃) 

同じようなものを物理実験などで見た方もいらっしゃるのではないでしょうか。少ない巻き数の一次コイルに電池を接続し、この電源を電鍵で断続すると、多くの巻き線を持つ二次コイルに高電圧が発生します。この高電圧を適当な距離を開けた電極(Spark Gap)に加えると、電極の間で放電します。

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逓信省型甲種単流電鍵(レプリカ オリジナルは1890年頃)

モールス符号を打電するための電鍵、英語ではTelegraph keyです。通信士の命ともいえる商売道具です。

エンジンのイグニッションコイルも誘導コイルで、間隙(Spark Gap)をスパークプラグにしただけです。エンジンではノイズが出ないようにしますが、火花送信機では積極的に空中に放出するわけです。

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アメリカのアマチュアたちは本当に自動車のイグニッションコイルの火花で電波を出していました。これは1500万台も作られてスクラップが安く出回っていたフォードT型のコイルです。

火花には非常に広い範囲の周波数の電波がふくまれます。まさにノイズそのものです。また、このような単純火花(普通火花ともいう)方式は、一次コイルを断続した瞬間に高圧が発生し、すぐに減衰してしまいます。

マルコーニの成功と軋轢

マルコーニは無線機を改良して通信距離を伸ばし、20世紀にはいると大西洋横断通信に成功し、特許を取って商業化に成功しました。

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米国マルコーニ無線電信会社(通称 American Marconi) 株券 (1913年)

マルコーニ社は、ライセンスを武器に世界の無線電信を支配しました。大西洋の反対側の米国にも支社を作り、その勢力を伸ばしていきました。火花式の無線機なら、本来はどの無線機とも交信できるはずですが、マルコーニは自社の無線機を搭載していない船と交信しない姿勢を貫きました。特に遭難時などに大きな問題を生じたため、各国は国際会議を開きましたが、マルコーニは参加しませんでした。アメリカはマルコーニの独占を打破するために国内各社のライセンスを集めて国策会社RCAを設立しました。そして第1次大戦の戦時立法により米国マルコーニの活動を停止させ、株式をRCAに強制的に売却させました。

まさに「経済安全保障」の問題です。重要な情報を取り扱う通信の世界では現代に通じる問題です。

考えてみれば、電信符号に名前を残すモールスも、電話の発明で知られるベルも、そして無線のマルコーニも、電気の専門家ではない、いわばアマチュアでした。パソコンのパイオニアのビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズもコンピュータ科学の研究者ではなく、若いアマチュアでした。
いずれも具体的な開発には専門知識を持った専門家がかかわってはいますが、全く新しい分野の開拓には、既存の技術の専門家よりも、可能性に魅せられたアマチュアのほうが向いているのかもしれません。

送信機のはじまりを見てきました。次は受信機についてみてみましょう。

コヒーラ:初期の検波器

送信機の電波をキャッチするには受信機が必要です。電波を検出して必要とする信号に変換するデバイスを検波器(detector)と呼びます。ヘルツが実験で使った火花間隙を使う検波器は、室内に置いた送信機の電波を受信してやっとかすかに火花が観測できる程度のものでした。つまり非常に感度が低かったので、実用的な検波器にはなりませんでした。

検波器にはいろいろなものが現れましたが、実用化されたものとしては「コヒーラ」が代表的なものです。コヒーラは、細いガラスの筒に金属の粉を詰めて両側に電極を付けた素子です。1890年にフランスのブランリーが発明したものですが、近くで火花放電が起こると電気抵抗が小さくなるという性質があります。発明者はこれを避雷器にすることしか考えなかったのですが、電波は放電の火花で起こしているわけですから、これで電波を検出できるということに気づいたのが英国のロッジでした。

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  ロッジのコヒーラ(レプリカ) オリジナルは1897年頃

コヒーラ(coherer)の名前は密着するという意味のcohere からロッジによって名付けられたものです。ただ、発明者のブランリーはこの名前が気に入らず、電波を通すものという意味でradio conductor を提唱しました。実際にはコヒーラのほうが一般的になったのですが、ラジオ(radio)という言葉が無線の世界に現れた最初となりました。

コヒーラには、一度導通するとそのまま戻らないという欠点があります。このため、繰り返し信号が届くモールス符号の通信に使うには、ガラス管をたたいて密着した金属粉を元に戻すことが必要です。指ではじくわけにいかないので、電磁石を使ってガラス管をたたく装置が作られました。「デコヒーラ」といいます。こんな感じです。

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  デコヒーラを取り付けたコヒーラ(レプリカ) 1899年頃

この形でコヒーラ検波器として動作します。符号を一つ検出するごとにたたいて戻さないといけないのでスピードに限度があります。せいぜい1分間70字程度、今どきの言い方だと2~3BPSといったところです。電波がある、ないの2つの状態しか検出できないので、モールス符号でしか受信できません。考えてみれば電信はデジタル通信だったのですね。

最初の受信機は音を聞くものではなく、電信符号を印字または指示するもので、有線の電信と同じ機器を使いました。

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これがコヒーラを検波器とした「受信機」の姿です。左端のガラス瓶は電源となるソーダ電池、中央奥が印字機で、紙テープにモールス符号を記録します。右端はリレイで、コヒーラが検出した信号によって接点を開閉して印字機の電源が断続され、信号が記録されます。検波器の代わりに電信線がつながれば、明治初期からある電信機です。電信の場合は、電線を通してリレイを断続する電流を流せますが、無線では大きな電流を流せないので、実際には検波器側と印字機側に2個の電池が必要です。検波器はリレイを制御するスイッチとして働きます。ラジオというより無線LANにつながったプリンタというところでしょうか。

コヒーラは今では検波器には使われていませんが、放電を検出すると導通するという性質から、避雷器としては現代でも似た部品が使われています。発明者が本来考えた用途が残ったのですね。

電信符号を印字する方法は、受信側に特別なオペレータが必要ないので、電信でも初期に使われたのですが、通信速度の遅さが問題になりました。このため、リレーの接点の音を直接聞いてモールス符号を解読する方法も使われました。共鳴箱に入れた接点の音を聞くのですが、「カチカチ」という音でモールス符号を判読するのですから、かなりの熟練が必要でした。

コヒーラはデコヒーラが必要でスピードが遅かったために、様々な方式の検波器がいろいろ開発されました。検波器のアイデアには磁器検波器や水銀検波器など、多くの種類がありましたが、競争を勝ち残って長く使われたのは鉱石検波器でした。

鉱石検波器

鉱石検波器は、黄鉄鉱や閃亜鉛鉱などの鉱石に金属の針を立てると、一方向にだけ電流を流す作用を使ったもので、これでAM検波ができます。レバーを操作して針と鉱石が触れる位置を調整して感度がよいポイントを探します。この操作から「探り式鉱石検波器」と呼びます。

鉱石検波器

探り式鉱石検波器 (左:1916年頃、右:1920年頃 アメリカ製)

今でいうなら点接触ダイオードで、半導体の作用を使ったものですが、この当時は動作原理はわかっていませんでした。鉱石検波器などの新しい検波器を使えるようになって、受信された電波の「音」を、電話機と同じ受話器を使って直接聞くことが可能になりました。受信機は、モールス符号だけでなく、無線電話にも対応できるようになりました。

こうして印字機などを使わずに、人間が直接モールス符号を聞いてタイプを打つなどして文字に変換する受信スタイルが確立しました。機械でデコードするより人間の能力で変換したほうが早かったのです。スピードは上がりましたが、オペレータにモールス符号を解読できる技能者が必要になるという問題が生じました。


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初期のアマチュアが手作りした鉱石式受信機(復元) 1915年頃

板の上に部品を並べた初期の受信機を、当時の部品を使って再現したものです。左上の可変インダクタンスと手前のバリコンで同調回路(後述)を構成し、手前中央の鉱石検波器で電波を復調します。検波器の右の黒い板は高周波をバイパスするコンデンサです。この受信機は今でいうならゲルマラジオですが、何とも大掛かりなものになります。長波帯用の受信機ですから、アンテナも巨大なものが必要です。

それにしても、単純火花の電波は聞き取りにくいものでした。この減衰波を連続波にする努力が続けられました。次は送信機に戻って改良の軌跡を見てみます。

火花送信機の改良

火花放電を連続して発生するアイデアの一つが、ロータリー・スパーク・ギャップです。

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  回転式スパークギャップ (アメリカ製 1916年頃)

モータで円盤に付けられたたくさんの電極を間隙の間で回転させると、次々に放電が発生して長時間連続するようになります。

連続波に近いものが出るようになったのはよかったのですが、長距離通信しようとすると、高電圧にして強烈な火花を出す必要があります。当時の船舶の無線室というと、放電の強烈な閃光と騒音、熱に包まれ、感電しかねない危険な職場だったようです。溶接機のすぐそばで事務仕事をすることを考えれば、その恐ろしさがわかります。タイプを打ったりメモを取ったりしなければならないので、溶接工と違ってサングラスはかけられません。

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空冷式火花間隙:加熱する間隙を冷やすため、電極にヒートシンクをつけたもの (メーカ不明 1915年頃)

そこで登場したのが瞬滅火花式です。ごく短い隙間に連続して放電させることで聞き取りやすい連続波に近い電波を出せる装置です。ギャップが狭くなったことで必要な電圧が下がり、閃光や騒音からは少し解放されました。

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銚子無線局の内部(絵葉書より) 卓上右側に瞬滅火花式間隙がみられる

交流発電機をモータで高速回転させて高い周波数の交流を発生させる「高周波発電機」を使うものもありました。回転数が上がると受信機で受信される電信のトーンの音が高くなり、聞き取りやすくなりました。機械的に回転させるので限界はあり、頑張っても長波帯が限度です。

こうして何とか連続波を出すことが可能になりました。連続波(Continuous Wave)を略してC.W.と呼びました。現代でも、アマチュア無線で使われるモールス電信のことをCWと呼ぶのはこのなごりです。C.W.をA電波、単純火花の電波をB電波といったことから、火花式の電波のこと全般をB電波と呼ぶこともあります。

かなり高い周波数の連続波が出せるようになったことから、音声信号を送る無線電話も可能になりました。アメリカのフェッセンデンは19世紀最後の年の1900年に10kHzに周波数を上げた火花式の高周波発電機で世界初の無線電話に成功し、1906年には100kHzの電波で世界初のラジオ放送を実施しました。しかし、この時はまだ受信機が家庭にはなく、一部の通信士が聞いただけでした。日本でも瞬滅火花式のTYK式無線電話が開発され、1914(大正3)年から5年間、三重県の離島で実用に使われました。

同調回路の始まり

火花放電には、非常にたくさんの周波数の成分が含まれています。このため、たくさんの船に無線機が搭載されるようになると、混信が発生して困ったことになりました。実際、遠くの局と交信しようとしても、近くの船が電波を出しているとまったく受信できないというようなことが起こりました。

ここで送信側、受信側ともに特定の電波に対して感度を上げる同調回路を付けるようになりました。同調回路の概念はロッジによって提唱されました。
どの周波数に対しての感度(利得)が上がるかは、おもにアンテナの長さで決まりますが、コイルとコンデンサによる共振回路を取り付けてより鋭い特性とすることで、特定の周波数に対する感度を上げることが可能になりました。

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発振用高周波トランス (1kW 送信機用 1914年頃 アメリカ製)

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1918年頃のアマチュア無線用送信機 (アメリカ製)

中央の木箱が感応コイル、右の電鍵の奥にある箱が感応コイルのエネルギーをチャージするコンデンサーで、上にスパークギャップがあります。左に出力側のコイルと固定コンデンサがあって、コイルのタップを切り替えることで同調回路を調整します。

真空管の登場

鉱石検波器の実用化によって、無線電話にも使えるようになり、音声の受信が可能となりましたが、鉱石検波器では感度に限界がありました。
また、火花式の送信機で実現できる電波の質にも限界がありました。

もっときれいな連続波を発振し、もっと高感度の受信機を実現するには、増幅度を持った新しいデバイスが必要でした。最初の真空管の発明には発明王エジソンが重要な役割を果たしました。1883(明治16)年に、エジソンは炭素電球のガラスが煤で汚れるのを防ごうと、炭素を吸収できるのではと思って電球の中にもう一つの電極を付けました。すると不思議なことにフィラメントと追加した電極がつながっていないのに電流が流れました。それも、追加した電極(アノード)をプラスとしたときだけ流れたのです。

これはのちに「エジソン効果」とよばれ、整流作用を示したのですが、なぜかエジソンは無線通信やラジオには関心がなく、1904(明治37)年に、これを鉱石検波器に代わる検波器として実用化したのは英国のフレミングでした。

この二極管には増幅度がありません。そこで、フィラメントともう一つの電極(形状からプレートと呼ぶ)の間にもう一つ電極を入れてみたのが、アメリカのド・フォレストでした。1906(明治39)年のことです

この間に入れた電極(形状からグリッドと呼ぶ)の電位を変化させると、プレートからフィラメントに流れる電流を制御することができます。グリッドに印加する小さなエネルギーでプレートの大きな電流を制御できるので、信号を増幅することができるようになりました。

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初期の三極真空管 (Deforest AUDION valve type DV3) 1923年頃

増幅度を持った三極真空管を使えば、発振させることもできます。実用的な真空管による発振回路は、1912(明治45)年に、アメリカのアームストロングによって発明されました。もう火花をバチバチ飛ばして電波を出さなくてもよくなりました。真空管によって純度の高い連続した電波を出せるようになり、火花式送信機は急速に真空管式に置き換えられました。

ラジオ放送のはじまり

無線通信は第1次世界大戦で活躍し、発展しました。無線の知識を持った兵士が復員し、彼らは安価に放出された無線機や部品を使って、アマチュア無線を楽しみました。アメリカの電機メーカ、ウェスチングハウスに勤めていたフランク・コンラッドもアマチュア無線を楽しんでいた一人でしたが、彼はその仕事柄、会社の最新の真空管式の無線機を使えました。彼は、アマチュアたちと交信するだけでなく、音楽をかけたりニュースのようなものを喋ったりするようになりました。この「放送」が人気となり、受信するための簡単な鉱石ラジオが販売されるようになりました。

雇い主のウェスチングハウス社は、戦争が終わって無線機の需要がなくなって困っていました。そこでコンラッドの無線局に関心を持ち、正式な放送局(コールサインKDKA)を設立し、ラジオセットを市販するようになりました。1920年のことです。KDKA局の開局をもって、ラジオ放送のはじまりとされています。

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Westinghouse type RC 3球受信機 (1922年)
コンラッドが使っていた受信機を改良して市販した、世界初の市販のラジオ放送用受信機。

業務用無線の世界では、鉱石検波器は真空管式に置き換わっていたのですが、ラジオ用としては電源も不要で安価なことから、どこの国でも鉱石式受信機が庶民に多く普及しました。鉱石検波器はラジオ放送受信用として復活したわけです。

各国でラジオ放送始まる

アメリカのラジオは急速に発展しましたが、その他の国々でもラジオ放送が始まりました。イギリスでは1922年に放送が始まりました。アメリカではすべて民間放送、メーカも民間企業で自由に設立してよいというやり方でした。これは現在でも世界的には特異なやりかたです。多くの国では国営または公共放送が一つだけという体制でした。イギリスは公共放送BBCのみに放送が許され、ラジオもイギリス国産の、許可を得て「BBCマーク」を付けたもののみ使えるとされました。

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GECoPhone Type No.1 , 探り式鉱石受信機 G.E.C. 1922年

BBCマークを付けた鉱石受信機の一つ。国土が狭く、平坦なイギリスでは、全国で安価な鉱石受信機で受信できるように放送局を設置しました。これはのちに日本の「全国鉱石化」に影響を与えることになります。

日本のラジオのはじまり

日本では1923(大正12)年の関東大震災をきっかけに放送開始が正式に決まりました。アメリカの制度を参考に放送局は民間会社が行うと決めたのですが、1924(大正13)年には放送施設出願が全国64件にも達し、混乱したこともあって政府の方針により、公益法人に限ることとなり、東京、大阪、名古屋の三大都市に放送局設立が許可されることになりました。日本の放送制度は国営放送ではなく、公共放送が受信料を徴収するイギリス式を採用しました。

1924(大正13)年11月29日に東京放送局(JOAK)、翌25(大正14)年1月10日に名古屋放送局(JOCK)、同年2月28日に大阪放送局(JOBK)が創立されました(いずれも社団法人)。

設備の遅れにより仮放送ではありましたが1925(大正14)年3月22日、東京、芝浦の仮放送所からラジオの試験放送が開始され、日本のラジオ放送の歴史が始まりました。出力はわずか220Wでした。同年6月1日からに大阪が仮放送(500W)を開始、7月12日には東京放送局が愛宕山に移り本放送を開始、7月15日に名古屋が本放送(1kW)を開始しました。

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東京放送局(愛宕山) 1927年頃 絵葉書より

型式証明受信機

放送開始直前の1923(大正12)年に公布された逓信省令「放送用私設無線電話規則」により、ラジオ受信機は逓信省の認可を受けたものとされました。ここにもイギリスのBBCマーク制度の影響があります。

技術基準は1916(大正5)年に発令された逓信省令第50号 電気用品試験規則第4条により定められ、「受信波長帯が200-250m、350-400mに限られ、電波の再放射のないもの」とされました。試験を受け、合格すると「型式証明」が与えられ、合格番号を表示することができました。

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型式証明受信機の一つ サイモフォンA-2型 東京電気(現東芝) 1925年

型式証明受信機は、波長切り替えが必要で、再生検波が使えないことから感度が悪い上に優秀な輸入品より高価なものでした。波長切り替えがあった理由は、300mバンド(1MHz) に、公衆無線通信(船舶電報)が割り当てられていたからです。放送用私設無線電話に与えられた聴取許可では、指定された局以外の電波を受信することが禁止されていたので、目的外のバンドを受信できない規格となっていたのです。

この中波ラジオのバンドの真ん中に居座る形となった公衆通信の電波は、遠距離通信が短波に移行することになったことから立ち退くことになり、ラジオの波長切り替えの義務もなくなりました。

ラジオが必要以上に高価になって不自由なこの制度は評判が悪く、すぐに形骸化して自由化され、国産化された安価なラジオが普及していくのです。

ポスター

出展目録

館長のひとりごと、展示風景

早いもので日本ラジオ博物館もオープンしてから10年目を迎えます。ラジオ放送が始まる前の、無線通信の初期のころについても、いつかは展示したいと思っていました。展示したくても物がなかったのですが、柴山コレクションを受け入れたことで、かなりそろってきました。

ほんとうはラジオ放送100周年の2020年にやりたかったのですが、ご存じの通りコロナでこんな話題はどこかへ飛んでしまいました。当館もちょうど移転が重なったので余裕がなく、先延ばしになってしまいました。

そこで開館10周年記念展として開催することにしました。19世紀末から20世紀初頭のこの時代は専門外なので、あらためてたくさんの本を読みなおして勉強しました。

この時代の無線電信というと、遠い世界のことなのですが、幸い「タイタニック」(1997年)という映画がヒットしたので、無線を打つ場面を見た方も多く、以前よりは説明がしやすくなりました。

さすがに映画の公開から25年たつので若い方の中には見ていないという人も多いかと思います。興味があればぜひ映画のほうも見て見てください。

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展示の最初の部分、火花式の初期の送信機の展示です。1915年頃のものです。科学博物館みたいですね(笑)。

今回の展示品の多くがアメリカ製です。アメリカでは火花式送信機の時代からアマチュア無線が盛んで、機材もたくさん残っています。日本ではラジオ放送が始まる前、無線は主に政府機関や軍のもので、民間といっても船舶に搭載された業務用でした。このため日本製のこの時代の機器は一般に市販されたものがほとんどなく、残っているものはごくわずかです。

アメリカAWA(Antique Wireless Association)の博物館に行ったとき、当時のアマチュアの機材で火花式送信機の実演をやっていました。今回、やってみようかとも思ったのですが、危険すぎるのであきらめました。

火花をバチバチ飛ばして電波を出していた素朴な時代から、100年でスマホを使いこなすまでに進化した、その原点に触れていただければと思います。

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真空管がない時代の受信機の展示です。放送を聞く「ラジオ」の時代の機械とはだいぶ雰囲気が違います。

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初期の欧米のラジオ受信機の展示です。放送が始まって数年後、ラジオは爆発的に家庭に普及しました。

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日本の初期のラジオの展示です。アメリカに送れることわずか5年で日本でも放送が始まりました。貴重な型式証明受信機を中心に展示しました。

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日本ラジオ博物館
日本でラジオ放送が始まって95年を超えました。当館では日本製のラジオを中心にオーディオ機器など歴史的に貴重な製品及び関連資料を、放送の歴史の流れに沿って分類、整理してネット及び長野県松本市の博物館で公開しています。タイトル写真は展示室の様子です。