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「高度成長の記憶」展

前の東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の前後10年間、日本は平均9%という驚異的な経済成長を達成し、家電製品が家庭に行き渡りました。この特別展では高度成長期を振り返り、1950年代後半から1980年頃までのラジオ、テレビなどを展示しました。

はじめに

昭和31(1956)年の経済白書で「もはや戦後ではない」というフレーズが使われ、経済が戦前の水準を超えたことが明らかになりました。その後、池田内閣の「所得倍増」計画により、産業の設備投資が活発になり、GNPは年率10%を超える驚異的な成長を示し、国民の生活は急速に豊かになっていきました。

昭和30年代初頭、テレビはまだ高価だったもののラジオは広く普及していました。同時期に真空管式ポータブルラジオの輸出が始まり、発売されたばかりのトランジスターラジオが後を追って急速に普及していきました。

昭和34(1959)年の皇太子殿下(現上皇陛下)ご成婚を機に国内では白黒テレビが倍々ゲームで普及し、冷蔵庫、洗濯機と合わせて「三種の神器」といわれ、家庭電化が急速に進みました。海外に向けてはトランジスターラジオが新たな輸出商品として大量に欧米に出荷され、1960年代に入ると真空管式ラジオの生産を大きく超えるようになりました。

1ドル360円の固定相場、安価な石油、東西冷戦を基軸とした国際情勢は、日本製品の輸出に有利に働きました。昭和35(1960)年にカラーテレビ放送が始まり、昭和39(1964)年の東京オリンピックの一部もカラー中継されましたが、受像機は高価でごく一部で使われただけでした。

東京オリンピック後の昭和40年不況を経て1960年代後半も高度成長を続け、全国で放送が始まったFMラジオが普及しました。昭和43(1968)年以降カラー放送が全国で始まり、昭和45(1970)年以降カラーテレビが普及していきました。

この時期、高度成長を果たしたものの成長のひずみとして公害や都市への人口集中と地方の過疎化などの社会問題を引き起こし、物価上昇や多くの欠陥商品の発生から、消費者運動が盛んになりました。日本製品の大量の輸出は欧米各国と貿易摩擦を引き起こし、貿易の自由化を求められるようになりました。高度成長は、昭和48(1973)年の石油ショックで終わりを告げました。

高度成長の経験は、日本人や日本企業に、良くも悪くも多くの影響を与えているように思います。また、現代の新興国を見ていると、成長過程において同じような問題を引き起こしていることがわかります。この特別展では、高度成長の原動力となり、またその結果として広く普及した60-70年代のラジオやテレビをご覧いただくことで、この時代をもう一度見つめ直したいと思います。

高度成長の始まりとラジオの多様化 1955-1959(昭和30-34)年

昭和30年代初頭、広く普及していたラジオの形態は多様化していきました。ミニチュア管の量産とともに小型化された安価な普及型ラジオと、音楽番組の広がりに伴い、大型のハイファイ型ラジオや小型の電蓄が数多く発売されるようになりました。真空管式ポータブルラジオ生産が急増し、専業メーカに加えて大手も参入し、その多くが輸出されました。

高度成長展50年代

昭和30年代前半のラジオ。プラスチック製の小型ラジオ(上段右)と大型のハイファイラジオ(下)がともに人気商品だった。まだ真空管全盛の時代です。
上段左はナショナルの時計をイメージしたユニークなラジオです。

1955年に発売されたトランジスタラジオは、高価でしたが安価な電池で長時間使える利便性から、急速に真空管式を置き換えていきました。1958年頃から、日本は高度経済成長期を迎え、GDPの伸び率は1960年以降年率10%以上の驚異の成長を見せました。これに大きく貢献したのは輸出でした。トランジスタラジオはそれまでの繊維や玩具に代わって日本の代表的な輸出品となりました。

高度成長展2

中央がソニー(当時は東京通信工業)の初期のラジオ(TR-72: 1956年)
左は日立の最後の真空管式ポータブル。右は同社の初期のトランジスタラジオ(TH-666: 1958年)

1958年にはトランジスタラジオの生産が真空管ラジオの生産を超え、1959年には真空管式210万台に対してトランジスタ式790万台と圧倒的にトランジスタ式が多くなっています。1955年に日本初のトランジスタラジオを生産してラジオに進出したソニーは、1959年にはトランジスタラジオのみでラジオ業界のシェア2位に躍進しています。

1953年に放送を開始したテレビは量産効果で価格が下がり、1958年には全国に多くの放送局が開設されて全国放送が始まり、翌1959年の皇太子ご成婚をきっかけに爆発的に普及し、視聴者は400万を突破しました。この年を境にラジオのみの聴取者は減少に転じ、家庭のメディアの中心はラジオからテレビに取って代わられました。ラジオはトランジスタラジオやカーラジオの普及により、よりパーソナルなメディアに変化していきました。

真空管からトランジスタへ -1960年代前半-

1964年の東京オリンピックに向けて日本経済は1960年以降年率10%以上の驚異の成長を見せました。トランジスタラジオは日本の代表的な輸出品となり、多い時は全生産量の90%が輸出されました。当初安かろう悪かろうだった日本製品の品質は、ソニーなどの一流企業の製品を中心に徐々に改善され、各国消費者の信頼を得ていったのです。トランジスタラジオは国内でも普及しましたが、安価なことから国内販売ではまだまだ真空管式が大きなシェアを占めていました。テレビは小型のものからトランジスタ化が始まったが、まだ大半は真空管式でした。1960年代前半は、真空管が民生用テレビ、ラジオに大量に使われた最後の時代でした。また、数年前まで大量に輸出された真空管式ポータブルラジオは1960年には統計から姿を消しました。

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超小型から変形、時計付きなど多様化した1960年代前半のラジオ(右上のみ真空管式)。

白黒テレビは東京オリンピックが開催された1964年には世帯普及率60%を超えていました。1960年にはカラーテレビの実験放送が始まりましたが、エリア、番組とも少なく、受像機もきわめて高価で一般的ではありませんでした。

エレクトロニクスの急速な発展 -1960年代後半-

1960年代後半に入ると、市販の真空管ラジオはほぼなくなり、真空管はアマチュアの自作と、大電力や高圧を必要とするオーディオアンプやカラーテレビに使われるだけとなりました。

この時代のもっとも大きなトピックは、集積回路(Integrated Circuit: IC) の実用化です。アメリカで開発されたICは、電子回路を小さなチップに形成するもので、小型で高信頼の大規模な電子回路を容易に作れるようになりました。当初は大型コンピュータや宇宙開発に使われましたが、電卓などの民生機器にも使われるようになり、ラジオやテレビにも少しずつ応用され、低コスト化と信頼性の向上に役立ちました。集積回路は70年代以降急速に集積度が上がり、電子機器の歴史に大きな影響を与えていきました。

1968(昭和43)年にはカラーテレビの全国放送が始まり、カラー受信契約が設定されました。カラーテレビはまだまだ高価で、真空管式受像機の信頼性も低かったのですが、それでも1970年の大阪万国博に向けてメーカ各社の開発が進み、低価格化やトランジスタ化も進み、徐々に普及していきました。1970年には世帯普及率が20%を超え、1973年には白黒テレビの普及率と逆転しました。

放送の受信契約がラジオとテレビから、カラーテレビと白黒テレビに切り替わることで、ラジオのみの契約が廃止され、ラジオは無料開放されました。1960年代後半にはFMの実用化試験放送が全国に普及し、ステレオ放送も開始されました。電波行政上の問題から本放送への移行は遅れ、1969年に本放送を開始しました。FMラジオは一般的になり、1960年代前半までの中波と短波の2バンドから、FM-AMの2バンドが標準的な構成となりました。

高度成長展4

1960年代後半から70年頃の小型テレビとラジオ
FMラジオが一般的なった時代です。

デザイン面では、ステレオや大型テレビに、重厚な家具調デザインに和風の風雅な名前を付けるのが流行しました。対照的にプラスチックを生かしたポップでユニークなデザインの小型ラジオやオーディオ、花柄模様の白物家電なども流行しました。

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和風のデザインの小型ステレオ(ナショナルSF-3100型 1967年頃)。「宴:うたげ」と命名されていました。この頃の松下のステレオにはグレードごとに「潮:うしお」「飛鳥:あすか」などの名前が与えられていました。

1970年代という時代

東京オリンピック後の昭和40年不況を経て1960年代後半も続いた高度成長は、大阪万博が開催された1970(昭和45)年頃にピークを迎えました。FM放送が正式に始まってFMラジオが普及し、カラーテレビも価格が低下し、普及していきました。

この時期、高度成長を果たしたものの産業振興に偏った経済政策は公害や都市への人口集中と地方の過疎化などの社会問題を引き起こし、高度成長の負の側面が目立ってきた時期でした。日本製品の大量の輸出は欧米各国と貿易摩擦を引き起こし、貿易の自由化を求められるようになりました。1971年8月15日、アメリカはドルと金の交換停止、アメリカへの輸入品への課徴金設定を発表、この「ドルショック」によって1ドル360円の固定相場制から変動相場制に移行し、日本の輸出産業は打撃を受けました。1973年10月、第4次中東戦争をきっかけに石油の輸出が制限されたことから価格が高騰、「石油ショック」によって一気に景気が悪化、「消費」から「節約」へ時代が転換し、高度成長は終わりを告げました。

このころ、もっとも大きなグループを形成していた消費者は、いわゆる「団塊の世代」でした。1970年代は終戦直後生まれのベビーブーマーが「若者」から「ニューファミリー」となっていった時代です。この世代の成長に合わせて耐久消費財は「ヤング向け」のラジオから始まり、ファミリー向けのカラーテレビやオーディオ、自動車、住宅など、商品を提供する側も成長していきました。

1970年代前半にはラジカセやBCLラジオのブームがあり、同時に低価格の電卓が普及し、IT機器が家庭に入るきっかけとなりました。70年代後半にはデジタル時計、ウォークマン、パソコン、ビデオデッキなどが発売され、次世代を担う新しい機器が世に出た時代でした。

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70年代はじめの若者向けラジオ。左から「ワールドボーイ」(ナショナル)、「サウンドナナハン」(東芝)、スカイセンサー(ソニー)。このスカイセンサー5500は、BCLラジオの基本デザインとなりました。

1970年代後半にはラジオなど低価格の製品は香港、台湾などの新興国に追い上げられて海外生産が始まり、テレビなどの家電製品も国内の普及は飽和し、買い替え需要メインの市場になっていました。1970年代は日本の家電業界にとって実は重要なターニングポイントでしたが、多くは気づかずに通り過ぎてしまいました。団塊の世代の成長に伴う市場の伸びとビデオなどの新商品の牽引もあってとりあえず成長は続き、団塊の世代が働き盛りとなるころに「バブル景気」が到来しました。しかし、新規需要に頼った成長はすでに望めなくなっていたにもかかわらず、戦略を変更できなかった家電業界大手は、その後深刻な経営不振に陥り、現在に至っています。

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同じ形のホームラジオですが、赤いのは日本製、青いのは台湾製。品質に違いは見られません。安価な製品から海外移転が始まっていった時代でした。
シャープを買収した鴻海も、当時はこのような仕事から成長のきっかけをつかんだのです。

企画展概要

名称:
高度成長の記憶 -昭和30―40年代のラジオ-
開催期間:
2014年4月26日~11月8日

主展目録

ポスター

館長のひとりごと

私は大阪万博の年に小学校に上がりました。高度成長期にはまだ子供でしたが、それでも「大きいことはいいことだ」というCMや、毎年家電製品が増えていった時代の「空気」のようなものは覚えています。

家もきれいに明るくなりました。いまでこそ渋い「古民家」や本物の木の家具は大切にされますが、実際に「古民家」ではなく、「民」がない、ただの「古家」に住んでみれば、すきま風だらけで寒く、障子とすすけた壁で薄暗い家の生活が快適なわけありません。この頃、終戦直後に建った我が実家にもリフォーム(まだこんな言葉はありませんでした)の手が入り、新建材で覆われ、アルミサッシが入り、蛍光灯が部屋を真っ白な光で満たし、けばけばしい派手な色や花柄で飾られた家電ややデコラ張りのピカピカの家具が置かれました。

今でこそ、「立派な家をこんな安っぽくして」と言われそうですが、本当に「生活が良くなった」と感じたものです。火を焚いて自然を楽しむようなエコな暮しの良さは、いつでも快適な暮らしに戻れる余裕があってこそ感じられるものです。

小学校時代の70年代前半は、夏に光化学スモッグ警報が出ると外で遊べなくなり、ごみが増えすぎて分別収集が始まり、外を歩くときはいつも車に気を付けていないといけないという、高度成長のひずみのほうを強く感じていました。真空管式テレビがそこらじゅうの道端に捨てられていたのは真空管を集めるのには良かったのですが・・・。

この企画展の展示品の多くは現在の第2常設展示室に生かされていますが、重厚なニス塗りのラジオが並ぶ第1展示室から入ってくると、まず感じるのはその「明るさ」とバラエティに富んだ「豊かさ」です。この雰囲気の違いから、高度成長期の時代の雰囲気を感じていただければと思います。

ちょうど2021年には(その是非はとりあえず置くとして)オリンピックが開催されます。前回のオリンピックは高度成長にはずみを付けました。しかし、実はオリンピック後に反動が来て不況になり、株ブームに乗った山一證券が一回目の破綻をきたしました。オリンピックの年に生まれた私にとっては「東京オリンピック」には思い入れがありますが、「オリンピックを成長の起爆剤に」という「夢よもう一度」をめざす、上の世代の方々の発想の古さにはあきれているところです。今はそんな時代ではないということを理解するためにも、もう一度この時代を振り返ってみるのも良いのではないでしょうか。

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