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企画展 ハイファイへのあこがれ

日本ラジオ博物館

昭和30年以降、高度成長期にレコードやテープを再生するオーディオ機器が家庭に普及しました。今回の企画展では、ごく普通の人たちが手にした身近なオーディオ機器を取り上げました。
(タイトル写真は東芝のラジオとレコードプレーヤ、1959年頃)
(長野市、草間様寄贈)

概要

開催期間:2023年3月18日(土)~12月10日(日)
開催日:土、日、祝日
ゴールデンウィーク期間(5月3日~5月7日)
及び夏休み期間(8月10日から16日)
(今後の状況により臨時閉館または開催期間を変更する可能性があります。)
開館時間:午後0時から4時 (最終入館時刻 3:45)
観覧料: 大人500円、15歳以下200円 (常設展共通、小学生以下無料)

戦後の電蓄

明治時代から蓄音機とレコードは家庭に普及していきましたが、戦時中に生産が禁止され、レコードには禁止税的な高率の税金(最高120%!!)が課せられ、戦後もぜいたく品扱いとして高い物品税がかけられ続けたこともあって、レコードや電蓄は庶民にとって高嶺の花でした。

42p-pコンソール型電蓄 (製作者不明、1953年頃)
1950年代前半の典型的な電蓄。LPは発売されていたが、まだSPレコード専用です。メーカ品は高価すぎたので、多くがアマチュアやラジオ商が組み立てたものでしたが、それでも高価でした。  

LPレコードとテープレコーダの登場

戦後、東京通信工業(現ソニー)からテープレコーダが発売され、1951年にはLPレコードが発売されました。しかし、大卒初任給が5千円くらいだった時、LPレコード1枚が2,500円程度、レコーデッドテープの価格はその2倍以上という高価なもので、とても一般家庭で買えるものではありませんでした。
しかし、ちょうど民間放送が始まるころ、新設の民放局もNHKもLP再生装置とテープレコーダを導入しました。

ソニーP-1型テープレコーダ 東京通信工業(株) 1953年頃
初期のテープレコーダ、家庭用として発売された携帯用の機種だが、業務用としても使われた。

これらの新しい設備によって、これまでのSPレコードと円盤式録音機よりも高音質の音楽再生が可能になりました。音楽番組も増え、大衆はラジオによって音楽を楽しむようになりました。民放ができてラジオ放送が多彩になり、音楽番組も増えたことから、感度も音もよいラジオが求められるようになり、戦前は高級機だけだった「スーパーヘテロダイン方式」のラジオが一般的になりました。真空管を5本使ったことから「5球スーパー」と呼ばれます。

ナショナル US-200型 5球スーパー 松下電器産業(株) (1951年)
民間放送が始まったころの家庭用ラジオ

高度成長のはじまりとハイファイの普及

1956(昭和31)年の経済白書で「もはや戦後ではない」と記述され、GNP(国民総生産)が前年に戦前の経済水準を超えたことを意味しました。1955(昭和30)年は「神武景気」と名付けられた好景気の始まりの年で、その後の高度経済成長のスタートを切った年でした。

普及型電蓄の発売

所得が上がってきて音楽への関心が高まってくると、ラジオに付加するレコードプレーヤや、安価な卓上電蓄が求められるようになりました。

ナショナルCL-825A型レコードプレーヤとUX-500型5球スーパー(1957年)

ラジオとプレーヤが一体となった電蓄は、物品税が高いために割高でした。ラジオのピックアップ端子にレコードプレーヤを接続したシステムは、最も安価なオーディオ装置でした。これは「抽斗(ひきだし)型」と呼ばれる、戦前からあるラジオを上に乗せるための形式です。特にターンテーブルが17cm以下のものは、普及型として物品税が低かったので、このように大型のキャビネットに小さなターンテーブルのプレーヤを収めた「免税型プレーヤ」が作られました。

コロムビア3010型 5球スーパー付き3スピード卓上電蓄 (1956年頃)
2万円を切る価格の普及型電蓄

当時、サラリーマンが電蓄に支払える金額は上限3万円くらいといわれました。電蓄の老舗であったビクター、コロムビア、ラジオメーカの松下、シャープなどから小型で安価な卓上電蓄が発売されるようになりました。

ハイファイラジオ

なんといってもレコードは割高でした。そのため当時、重要な音楽ソースはAMラジオでした。民放ができて放送のバリエーションは増えましたが、まだ局数は少なく、地元に民放がない地方では、音が良いだけでなく感度の良いラジオの需要もありました。1956年以降、電蓄並みの強力なアンプ部とハイファイ用スピーカを備え、かつ高感度な高級ラジオが流行し、「ハイファイラジオ」と呼ばれました。

日立ハイファイラジオ 「ジーナ」S-564型 (1959年)
日立はこのころ、アメリカ人女性の名前を愛称に付けていた。

この日立製大型ラジオは、2ウェイスピーカを備え、有線式のリモコンも使えるようになっています。もともとラジオは戦前から松下、シャープ、ゼネラルなどのラジオ専業メーカや家電メーカが作っていました。
日立、三菱などの電機メーカは、扇風機や井戸ポンプなどのモータ関連製品のみ家庭向けに販売していましたが、昭和30年代以降、総合家電メーカとして自ら販売店チェーンを作り、テレビ、ラジオ、電蓄市場にも参入してきました。

オーディオ専業メーカのはじまり

部品からセットメーカへ ーもう一つのオーディオの流れー

戦後、メーカによるラジオの生産が滞り、また、高い税金の影響で完成品が高額だったことから、アマチュアやラジオ商がラジオや電蓄を組み立てることが盛んになりました。このため、新興の部品メーカが急速に発展し始めました。トリオ (春日無線:ラジオ部品)、パイオニア (福音電機:スピーカ)、オンキヨー (大阪音響:スピーカ)、山水 (山水電気:トランス)、アルプス (片岡電機:ラジオ部品)などが代表的なものです。

1950年代半ばになると、ラジオの物品税率も下がり、メーカから低価格のラジオが発売されるようになり、自作向けのラジオ部品やラジオキットの売れ行きが落ちてきました。自作向けのラジオ部品で利益を上げていた部品メーカは、新しい市場に進出することを求められました。急成長し始めたラジオやテレビの量産部品の供給に特化する者もあれば、まだ小さい市場だったオーディオ市場への進出を考える者もありました。

電蓄の税率は高いままでしたので、本格的な電蓄やオーディオ用のスピーカユニットやピックアップ、フォノモータなどに注力するようになり、ハイファイ用の部品を製造していたメーカは、各社が得意な部品を活用してアンプやチューナの組み立てキットを発売するようになりました。

また、ラジオや電蓄のキャビネットを作っていた木工メーカが、スピーカーボックスやプレーヤーケースを作るようになりました。

トリオ HF-1型AMハイファイチューナ (1955年)
春日無線のセット参入1号機
山水 HF-V60型 6V6p-pパワーアンプ (1956年)
トランスメーカの山水が作ったアンプキット、プリアンプPR-330型とペアになる

このようなアンプやチューナは、既製品に飽き足らないハイファイマニア向けの製品といえます。メーカ品がない時代には、自作するか、作れる友人などに依頼して作ってもらわなければならず、オーディオ趣味へのハードルはかなり高いものでした。

現在では、このようなマニア向けの「セパレートアンプ」や「コンポーネント」は、かなり高価なものになりますが、この時代は、電蓄にかけられた高率の物品税の影響で少し話が違っていました。

アマチュアが手作りしたオーディオシステム (1955-56年頃)
(愛媛県、濱本様寄贈) 開館当初の日本ラジオ博物館での展示

この写真は、1955年に上京した若いサラリーマンが独力で組み立てたモノラルの音響装置です。アンプは山水のキットを組み立て、スピーカとプレーヤは市販のケースにパイオニアのスピーカーユニットとKSの高級フォノモータ、ニートのピックアップという、当時の国産の高級パーツを組み込んだものです。市販の電蓄よりもはるかにレベルの高いシステムですが、実は材料費は5万円にもなりません。安価とは言えませんが、少しずつそろえて自分で組み立てれば、給料が1万円程度の独身の若者に手が出ないものではありません。メーカ製のこのクラスの電蓄は15万円くらいにはなるので非常に割安です。今でいう「単品コンポ」を組み合わせるオーディオは、実は技術と時間はあるけどお金のない若者向けでもあったのです。

ビクターやコロムビアも、アンプやスピーカを選んで組み合わせるシステムを用意していましたが、接続方式が標準化されていなかったこともあって、自社製品同士の組み合わせを基本としていました。

アメリカでは「電蓄」スタイルのハイファイセットから、アンプやスピーカを組み合わせるスタイルのシステムが一般的になっていました。山水やトリオの製品は、このような海外の情報を参考にしたものと思われますが、電蓄メーカが手掛けていないスタイルのオーディオセットは、海外への輸出に向く製品で、その後の輸出による成長の足掛かりとなるものでした。

キットから完成品へ

トリオ AF-22型 トライアンプ (1958年頃)
FM-AM-SW 3バンドチューナ付きプリメインアンプ(モノ)

春日無線は、チューナとプリ、パワーアンプを一体型にした製品を発売し、同社のブランドの「トリオ」にかけて「トライアンプ」と称しました。便利でコンパクトなトライアンプはヒット商品になりました。当初は組み立てキットでも発売されましたが、プリント基板がない時代にラジオ付きプリメインアンプをアマチュアが組み立てるのは難しく、メーカにはうまく動かないという問い合わせが殺到することになり、キットでの発売をあきらめ、完成品に一本化しました。

同社は早くからFMに力を入れ、1957年の実験放送開始に先駆けてFMチューナを発売しました。FM付きともなると製品はより高度化してチューナやアンプの自作は困難になりました。
ケースを購入すれば簡単な工作で完成するスピーカとレコードプレーヤは自作するとしても、アンプはメーカ品のラジオ付きアンプ(レシーバと呼んだ)を購入するのが一般的になりました。

こうして、部品メーカからキットメーカとしてオーディオ市場に参入したトリオや山水は、完成品のアンプを量産するセットメーカに成長していきました。スピーカ専業だったパイオニアもアンプを製造するようになり、セットメーカになりました。同じスピーカーユニットのライバルだったオンキヨーは、テレビやラジオの生産に注力するようになり、オーディオメーカとなるのはだいぶ後のことです。この経営判断は同社の経営悪化の原因となり、東芝の傘下に入ることになります。

アマチュアやオーディオ好きの技術者の集まりから始まった日本オーディオ協会も、セットメーカの発言力が強くなりました。トリオ、山水、パイオニアは後に「オーディオ御三家」と呼ばれるようになります。「オーディオ業界」のはじまりです。

ハイファイの大衆化

ソノシート『朝日ソノラマ』 創刊号 (1959年 朝日ソノラマ社)

所得が上がるにしたがってLPレコードも少しずつ販売が増えていきましたが、まだまだ庶民には割高でした。1959年にフランス生まれの画期的なレコードが発売されました。シートレコードです。
シートレコードというより、朝日ソノラマ社の登録商標の「ソノシート」と呼んだほうが通りが良いかもしれません。実際には「歌う雑誌KODAMA」のほうがひと月早いのですが、ソノシートが普通名詞になるほど有名になったのはこちらです。普通のレコードより非常に薄い盤で、紙に容易に挟めることから、冊子の間に挟み込んだ雑誌形式で発売されました。
これらは数枚のレコードを綴じこんで1冊300円程度で発売されました。コーヒー1杯50円くらいの時代ですから決して安いものではありませんが、それでも1,500円以上していたLPレコードよりはずっと割安でした。

東芝かなりやKS型ラジオとPT-6型レコードプレーヤ(1959-60年)

このような安価なレコードの普及に合わせて、低価格のラジオ用レコードプレーヤが発売されました。ラジオが小型のトランスレス方式になったのに合わせて、感電防止のためにオールプラスチック製の小型のレコードプレーヤが用意されました。

ソノシートは耐久性が低く、所得が上がるにしたがって本物のレコードに手が届くようになると次第に大人向け商品としては使われなくなり、紙に挟める特性から雑誌の付録や、子供向けの簡易なレコードとして使われるようになりました。

モノラルからステレオへ

戦前からステレオ録音は存在しましたが、本格的には2トラック以上のテープ録音が実用化されてから本格的に録音されるようになりました。1954年にはAMの放送局を2つ使って、具体的にはNHK第一で左チャンネル、第二から右チャンネルというような形で放送し、聴取者は2台のラジオを並べて聞くという形のステレオ放送の「立体音楽堂」が始まり、一般大衆がステレオに触れるきっかけとなりました。

ビクター STL-1S型 ステレオ電蓄 (1958年)
ステレオレコードに対応した電蓄の1号機

1958年には45-45方式のステレオレコードが発売され、写真に示すステレオ電蓄が発売されました。実はこのモデルには全く形が同じSTL-1という先行機種が存在するのですが、STL-1はステレオアンプと2組のスピーカを備えているだけで、ステレオレコードがまだ発売されていなかったために、レコードプレーヤはモノラルでした。ステレオ再生には、電蓄本体より高価なテープデッキを追加して、レコードの数倍もするこれまた高価なレコーデッドテープをかけるしかありませんでした。STL-1の広告には「ステレオ再生可能な電蓄」という中途半端な説明が付いています。プレーヤまでステレオ化されたSTL-1Sが、本格的なステレオ再生装置の1号機を言えるでしょう。
しかし、この機種にはラジオが付いていません(この例ではAMチューナを追加しています)。すぐにラジオ付きのステレオ電蓄が登場しますが、すでに始まっていたAM2波を使うステレオ放送に対応には対応しませんでした。ステレオレコードを売りたいビクターとしてはステレオ放送を受け入れたくなかったのでしょう。

高度成長の波に乗って1960年以降、ステレオ電蓄、レコードとも急速に普及し始めました。1959年にはテレビが急速に普及し、早くも次の大型商品が模索されていた時期でもありました。ビクターなどの電蓄/ラジオメーカだけでなく、日立や三菱、東芝などの電機メーカに加えて新興勢力の三洋電機なども参入し、いままでの電蓄の生産にステレオ電蓄の生産分がそのまま乗るような躍進を見せ、1960年には前年の倍の生産を示しました。

日立PSG-555型 ステレオ電蓄 (1960年)
日立がステレオに進出した初期の製品、プレーヤはステレオ対応だが本体はモノラルである

ステレオ用のプレーヤでモノラルのレコードをかけることはできますが、レコードを傷めるのでモノラルのプレーヤでステレオレコードをかけることはできません。ステレオの初期には、まだステレオ盤が少なかったために、電蓄本体はモノラルでプレーヤのみステレオ対応とした製品が多く、ステレオにするにはもう1チャンネル用のアンプ付きスピーカを追加する必要がある製品が多かったのです。

1960年以降は、2チャンネル揃ってセットになったステレオ電蓄の安価なモデルが発売されるようになりました。中にはこんな珍品もありました。

サンヨー STV-280型 「ステレオビジョン」 1961年
テレビ付きのステレオ電蓄、テレビはもちろんモノラルです。

テレビの放送時間が短かったためか、FMで結構音が良かったためか、理由はわかりませんが、1960年前後にこんな製品が数社から出ました。すぐになくなったところを見ると、この早すぎた「AVシステム」は市場に受け入れられなかったようです。
これを見て気づくのは、プレーヤとアンプ、スピーカが分かれているということです。専用のセットを前提にしていますが、初期のステレオ電蓄はコンポーネント形式になっていました。

しかし、イメージにある古いステレオというと、こちらの形ではないでしょうか。

カタログ:ビクターステレオ表紙 (1965年頃)

1963年頃からスピーカまで一体型で家具調で脚が付いた「アンサンブル型ステレオ」が一般的になりました。本来なら、ステレオ再生はスピーカを内側に振って三角形の頂点で聞くというのがセオリーです。そんなことはできないこの形は、一体型にして製造や設置が容易な量産向け商品として作られたものです。昔からある「電蓄」の発展形と思えばわかりやすいかと思います。カタログの写真を見ても、立派な邸宅のリビングに置かれている、大人向けの商品であることがわかります。ここまで家庭用の電蓄を作ってきたメーカのアプローチを見てきました。次はマニア向けの専業メーカの動きを見てみましょう。

オーディオ専業メーカの発展

ステレオアンプの発売

専業メーカのアンプもステレオ化しました。

パイオニア SM-B180型 "ステレオマスター” (1959年頃)
AM2波ステレオに対応したラジオ付きステレオアンプ、FMはモノラル

ここで、当時のアマチュアのシステムの一例を見てみます。

左右異なるスピーカを使ったアマチュアのステレオシステム (1963年頃)

これは、都内在住の若いサラリーマンが、モノラルからステップアップしたステレオセットです。モノラル用の左側のスピーカに右のスピーカを買い足し、アンプは新しいステレオアンプに買い替えています。モノラルでそれなりのシステムを組んでしまうと、もう一つ同じものを入手するということは難しく、両方入れ替えるのはもっと大変、ということで、ステレオの初期には左右のスピーカが違うという、今考えるととんでもないシステムがよくありました。ステレオの効果があれば多少左右の音質差があっても、ということで、雑誌に記事を発表しているような大家であっても左右バラバラのシステムを平気で使っていました。

さて、ここで当時のアンプのカタログを紹介します。

カタログ:山水ステレオアンプ (1960年頃)

若者に絶大な人気があった石原裕次郎を起用し、自室でカジュアルな格好でくつろぐ雰囲気を出しています。先ほどのビクターのカタログと比べると、富裕層の応接間に置く「電蓄」のイメージに対して、若者の自室で楽しむ「オーディオ」のイメージと、大きく商品の性格が異なっていることがわかります。オーディオはもちろん大人の趣味でもあったのですが、大きな人口を抱えていた「団塊の世代」の若者に向けた商品でもありました。

セパレートステレオの登場

モノラルからステレオになると、機器の設置の仕方が変わってきました。スピーカを左右に置くと、アンプやプレーヤをその間に置きたくなります。その需要にこたえてスピーカーボックスなどを作っていた木工メーカが、機器を置く棚を作るようになります。「オーディオラック」のはじまりです。

ここでパイオニアから画期的なアイデアが出ました。アンプのカバーとプレーヤーのケースを外して、ユニットとしてレコード棚を兼ねるキャビネットに入れてしまえばシンプルで安くなる。それに専用のスピーカを組み合わせれば使いやすく音の良いステレオセットができる、と考えました。3点セットのステレオの誕生です。

パイオニアセパレートステレオ S-42型 (1963年頃)
初期の3点セットはアンプのパネルが見えないようにカバーがあった。

外観はピアノフィニッシュのアンサンブルステレオと違って、アメリカで流行していた艶消しのオイルフィニッシュ仕上げとしました。「セパレートステレオ」は、パイオニアの商標ですが、後に普通名詞化しました。

一体型のアンサンブルステレオは、プレーヤがハウリングを起こしやすく、音質の限界がありました。このようにスピーカを独立させる効果は明らかでした。1960年代後半にはアンサンブル型の劣勢は明らかになり、ビクターなどの電蓄系メーカからも、3点セットのステレオが発売されるようになりました。

卓上型アンサンブルステレオ ビクターSTL-162F型 (1966年)
かなり後まで発売されたアンサンブル型ステレオの一つ。小さな普及型の製品だが、若者向けの製品ではなく、省スペースの家庭用電蓄である。その後、小型ステレオもスピーカが分かれてモジュラーステレオとなります。                                

いままで別の道を歩んでいた電蓄や家電メーカと、オーディオ専業メーカが初めて同じ製品をラインナップするようになり、専業メーカから見ると、家電メーカがオーディオ市場になだれ込んできたような状況です。こうして、専業メーカと家電メーカの垣根が崩れていきました。ここで、蓄音機の時代から連綿と続いてきた、家庭の居間で楽しむ大人の音楽再生装置としての「電蓄」の伝統が消滅してしまいました。

家電メーカからも本格的なアンプやレコードプレーヤが発売され、逆に専業メーカからも大衆的な小型のプレーヤやステレオが発売されました。

ハイファイの大衆化とトランジスタ化

1960年代後半になると、本格的なオーディオ機器にもトランジスタ式のものが増えてきました。

トリオ TW-31 ステレオプリメインアンプ (1967年)

トリオは1963年にトランジスタ化したステレオアンプTW-30を発売し、真空管との決別を宣言するほどでしたが、初期の製品はなかなか評価されませんでした。チューナなどの周辺機器からトランジスタ化が進みましたが、アンプは回路技術が成熟する60年代後半になってやっと普及し始めました。

トランジスタの特性を生かした電池で動かせるステレオも登場し、多くが輸出されました。

サンヨーDS-P3型ポータブルトランジスターステレオ (1966年)

ここまでは本格的に音楽を聴きたい層に向けた機器を紹介してきましたが、それほど音楽に関心がない家庭には、子供向けの簡単なレコードプレーヤだけが再生機器ということもよくありました。

東芝 GP-10型 ポータブルレコードプレーヤ (1963年頃)
簡単なアンプ(真空管式)を備えたポータブルプレーヤ

これは我が家にあったものですが、再生装置はこれしかなく、子供のころに雑誌の付録のソノシートをかけては楽しんでいました。

レコードが買いやすくなったといっても、ラジオは大切な音楽ソースでした。特に音質が良く、音楽番組が充実していたFM放送は実用化試験放送とはいえステレオ化され、音楽好きに注目されていました。

ソニー 8F-38 / STA-38型「ソリッドステートファミリD」(1966-68年)
FMラジオにステレオアダプタを追加してステレオとするもの

ソニーはテープレコーダとラジオから始まって、1960年代後半にはオーディオ製品も発売するようになっていました。このラジオは従来のラジオのデザインの常識から離れた画期的なものとして、グッドデザイン賞に選ばれました。本放送開始が目前になっていたFM放送に対応したものです。

テープレコーダを使いやすく

テープレコーダは1960年代以降、少しずつ安くなりましたが、オープンリールのテープは扱いが難しく、語学学習や音楽の練習など、家庭用といっても特殊な層しか使いませんでした。小型のテープを郵便で送れるようにする「音の手紙」を提唱したメーカもありましたが、成功しませんでした。

ソニー TC-102型 テープレコーダ (1963年頃)

送りと受けのリールにテープをかけないといけないわずらわしさを解消するために、リールをカートリッジに入れるアイデアが出てきました。次に紹介するのはその一例です。

サンヨー M-35型 "MICRO-PACK 35" (1963年)

2インチのリールを2段重ねにした三洋電機独自規格のカートリッジを使うテープレコーダ。1/4インチのテープをそのままカートリッジにしても、大きくなりすぎるか、小さくすると再生時間が短くなって実用性が下がりました。この規格も成功することはありませんでした。

(左)初期のテープデッキTC-2120型(1970年) (右)カセットテープ1号機 TC-100型(1966年)

多くのアイデアが出る中で、オランダのフィリップス社からより幅の狭いテープを小さなカートリッジに収めた「コンパクトカセット」の規格が発表されました。関心を持ったソニーがライセンスの無料公開を主張して受け入れられたことから広く普及しました。

日本では1966年にカセットレコーダ1号機がソニーから発売されました。最初は会議のメモ用や語学学習用を目的としていましたが、その素性の良さに注目した日本のメーカがテープと再生機を改良し、4年ほどたつとアンプを持たない「カセットデッキ」が発売され、オーディオシステムにカセットが入ることになりました。

組み合わせ型ステレオの登場

オーディオ愛好家が取り組むオーディオシステムの形として、機器間の接続方法がピンコードやDINケーブルに統一されたことから、メーカの異なる機器を組み合わせてステレオを構成することが可能になりました。今では「コンポーネント・ステレオ」と呼ばれますが、この当時は明確な用語がなく、『ステレオ』誌が名付けた「組み合わせ型ステレオ」と呼ぶようにします。

パイオニアの機器を中心にまとめた組み合わせ型ステレオ (1969年頃)
スピーカはパイオニアのユニットを使った自作品

アンプやスピーカを自作する趣味は一部に残りましたが、1960年代後半には、大多数の愛好家は既成の製品を購入してオーディオを楽しむようになっていました。

市場の変化は雑誌を見ているとよくわかります。1960年代前半までは、オーディオには『無線と実験』や『ラジオ技術』のような技術専門誌か、『音楽の友』のような音楽専門誌しかなく、専門的な知識がないと敷居の高い世界でしたが、大衆向けの『ステレオ』と高級品中心の『ステレオサウンド』が創刊し、オーディオ機器を「買う」ことが当たり前になった時代を反映しています。これは、整備士やマニア向けの『モーターファン』のような雑誌しかなかったところに、大衆向けの『月間自家用車』と富裕層向けの『カーグラフィック』が登場した自動車業界とよく似ています。1960年代後半はオーディオも自動車も、組み立てや修理が自分でできないと楽しめない趣味の世界から、新品を買ってくれば普通に使えるようになり、技術のない普通の愛好家にとって入りやすい世界になった時代です。

家庭用音楽再生装置の未来

今回の企画展は1960年代までですから、展示はここまでです。ここからさきは付け足しですが、この後の流れも少し追いかけてみます。日本独自の形式であった3点セットのステレオは、1970年代半ばまでカタログに載っていましたが、このころから業務用機器を思わせるアルミパネルをもったアンプやチューナをラックに収めた「コンポーネントステレオ」が流行します。
組み合わせ型のステレオとして異なるメーカの製品を組み合わせるのが本格的な姿ですが、メーカ純正の組み合わせをセット販売した「システムコンポーネント」略して「シスコン」が流行しました。

シスコンの例(トリオ) (1978年頃)

家具調のステレオがなくなってしまったので、居間にステレオを置きたいとなったらこの形のものしかありませんでした。メカ好きの男性にターゲットを絞ったこのデザインのステレオは、とても家庭のインテリアにマッチするものではありません。

ミニコンポ パイオニア CD700AV ”Private” (1986年)

1980年代になるともう少し小型のミニコンポが主流になりますが、こちらも若者をターゲットとした商品でした。

メディアがLPからCDとなってコンポはより小型化します。小型化したことで、周りから浮くような派手なデザインの製品は減りましたが、メーカは若者向け製品に注力し、大人が日常生活の中で音楽を楽しむためのオーディオセットのことを忘れてしまったようです。結局、オーディオセットを子供部屋から引っ張り出すことはできませんでした。

この頃までテレビは家庭に確固とした位置を占めていました。1990年代後半あたりから、大型ディスプレイとDVDなどを組み合わせる「AVシステム」や「ホームシアター」が流行りだし、手ごろな価格帯のCDプレーヤとプリメインアンプはDVDプレーヤとAVアンプになってしまいました。私はこれが普及品のコンポとハイエンドオーディオのつながりを断ち、中級オーディオにとどめを刺したと考えています。

その後は皆様よくご存じと思いますが、何らかの形でスピーカで音楽を家庭で楽しむ機器というのは必要ではないでしょうか。専用のリスニングルームを構えるハイエンドオーディオでもない、ヘッドホンでもない、質の高い家庭用オーディオ機器の未来を信じたいと思います。

ポスター

出典目録(製作中)

製作中です

館長のひとりごと

はじめてのオーディオをテーマにした企画展です。この解説では大型の機器を紹介していますが、なんといってもスペースが狭いので、スピーカやレコードプレーヤなどの大型の機器を展示できません。大型の機器は、常設展の展示品を参考にしていただければと思います。
それもあって大衆的なオーディオ機器を中心にしたという切実な事情もあるのですが、技術的には重要でもごく一部の人が使えるハイエンドの機器よりも、たくさんの人が一般家庭で音楽を楽しんだ普及価格帯の機器を積極的に取り上げたいという思いがありました。

もう一つは、蓄音機を起源とする「電蓄業界」と、パーツメーカから自作需要をとらえて成長してきた「オーディオ業界」の二つの流れを明らかにすることでした。家庭の応接間で音楽を楽しむ「電蓄」と、純粋に趣味の世界でレコード再生を楽しむ「オーディオ」の、起源も目的も異なる世界が1960年代後半に融合し、セパレートステレオという同じ形の製品を出したことで「団塊の世代」の需要を狙って家電メーカがなだれ込んできて70年代のオーディオブームにつながっていきました。

さて、皆様のお宅にはスピーカから再生するオーディオセットがあるでしょうか。3点セットの時代の後には、メカを強調したデザインの「システムコンポーネント」が流行し、居間に置かれることもありましたが、若者向けの製品といえるでしょう。この後のミニコンポも大人が使う製品とは言えないデザインが大半でした。

日本の大メーカには、一部の愛好家向けの趣味製品を大衆商品として若者に売り込んで、だれでもステレオを持っているまでにした功績は確かにありますが、蓄音機の時代から大人が集う部屋に置かれていたレコード再生装置をリビングルームから追い出し、「大人の世界」だったレコード鑑賞を「子供の趣味」にしてしまったという言い方もできるのではないでしょうか。若者が最新の音楽に関心を持ち、それが親の世代には受け入れられないものであればあるほど、個室のステレオや自動車、ヘッドホンステレオで楽しむようになるのはやむを得ない流れだったのかもしれません。しかし、その若者が成長して一家を構えても、生活の中で音楽を楽しむオーディオセットはなくなってしまったのです。

当館に寄贈される60年代後半以降のステレオセットも、子供の独立を機会に実家の元子供部屋に放置されたままのものが実家の整理に伴って出てくるという事例が多いのです。住宅事情に恵まれた地方であっても、オーディオにのめりこんだ若者が独立して家庭を構えた時に、独身時代にそろえた立派なステレオを新居のリビングルームに据えてレコードやCDを家族で楽しむということは少ないようです。

横浜事務局の近くにはIKEAがあるのですが、レコードやCDのラック、テレビ台は売っていても、オーディオラックはありません。モデルルームにもオーディオシステムをリビングに据える提案はありません。世界的にはディスクを再生するという形は過去のものになっている傾向がありますが、スピーカから音楽を再生して家庭で楽しむ形というのはこれからどうなっていくのでしょうか。

今回の小さな企画展でここまで考えるのは難しいかもしれませんが、オーディオが発展した原点ともいう時代を見つめなおすことで、オーディオの未来を考えてみることができればと思っています。

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