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「ラジオと戦争」展

戦後70年の節目の年に、ラジオを通して戦争を振り返る企画展を開催しました。戦時下のラジオ及び関連資料を展示し、戦争の時代を戦争におけるラジオの役割という観点から考える展示としました。特に玉音放送については特別にコーナーを設けて貴重な資料を展示しました。(タイトル画像は、当時電力事業も行っていた伊那電気鉄道(戦時中に国鉄に譲渡され、現在の飯田線となった)が作成した戦時中のラジオのチラシ(部分)、1941(昭和16)年

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この記事は「おうち平和ミュージアム」に参加しています。

はじめに

1931(昭和6)年の満洲事変に始まり、1937(昭和12)年には日中戦争に発展し、1941(昭和16)年に太平洋戦争開戦、そして1945(昭和20)年の敗戦に至る約15年の昭和初期は、まさに戦争の時代でした。また、この時代はラジオ放送が始まり、ラジオが一般家庭に普及した時代でもありました。

1936(昭和11)年の二・二六事件の際に叛乱軍に投降を呼びかけた「兵に告ぐ」から、現在では誇大な発表の代名詞ともなった「大本営発表」の戦果ニュース、命がかかった空襲警報、そしてラジオ放送が戦争を終わらせた「玉音放送」まで、この戦争にはラジオが大きな役割を果たしました。

戦後70年および放送開始90年の節目の年に当たる今年、この特別展では、戦時下と終戦直後の復興期のラジオ及び関連資料を展示し、戦争の時代を戦争におけるラジオの役割という観点から考える展示としました。

松本市は大規模な空襲を受けていませんが、先の大戦では日本全国の都市が焦土と化しました。今回は、奇跡的によい状態で残った焼夷弾の不発弾(処理済)を展示します。

焼夷弾

良い状態で残ったM69型焼夷弾の外筒です。長さ60センチくらいあります。こんな大きなものが燃えながら大量に降ってくるのが空襲です。(個人蔵)

しかし、この展示には、これ以外に直接戦闘に使われた兵器はありません。すべて「銃後」の一般市民が使った品物だけで構成しています。しかし、太平洋戦争では、戦った軍隊だけでなく、一般市民の生活、経済、報道すべてが戦争一色となっていきました。この展示から「総力戦」の一端を見ていただければと思います。

(注)銃後(じゅうご):戦場の後方。非戦闘員たる国民。(広辞苑より)

1945(昭和20)年9月2日の降伏調印をもって敗戦となり、進駐軍の占領下となりました。日本の民主化にラジオが大きな役割を果たしただけでなく、庶民の貴重な娯楽となりました。今回は、終戦直後から戦後復興期のラジオ及び資料を併せて展示することで、時代の大転換を日本人がどのように乗り切り、今の日本の原点となったかを考える展示にしています。

「非常時」のはじまり

1931(昭和6)年9月18日、中国東北部、柳条湖付近での鉄道線路爆破に端を発する中華民国との紛争(満洲事変)が始まりました。ここからいわゆる「15年戦争」の時代に入るのです。国内では「非常時」という言葉が盛んに用いられるようになり、人心を引き締めようとするものの、戦争の日本国内への影響は少なく、逆に「戦争景気」で経済が回復した時代でもありました。

ヨーロッパでは1933年にナチがドイツの政権を掌握し、「ドイツ第三帝国」が成立しました。ナチス・ドイツはラジオによる政治宣伝を重視し、そのために安価な標準型ラジオである「国民受信機」を量産し、普及に努めました。この手法は日本にもたらされ、放送協会の「放送局型受信機」制度の元になりました。

図4-radiomenge_138

ドイツ国民受信機のポスター(1933年、出典不明)。コピーは「全ドイツ国民は国民受信機で総統(の語るの)を聴く」です。大群衆が巨大な国民受信機を取り囲む図がこのラジオの性格を表しています。

NHK広告

無線雑誌に掲載された日本放送協会の広告(『ラヂオの日本』1939(昭和14)年9月号)。心を一つにしてことに当たるという力強いメッセージは、この時代の空気をよく表しています。建物は東京、内幸町にあった放送会館。

1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件に始まる日中戦争は、政府の思惑に反して拡大を続けました。1930年代後半以降は徐々に資材がひっ迫し始め、本来高品質なラジオを安価に供給することを目的とした放送局型受信機は、資材節約型の標準受信機として量産されることになりました。
民間のラジオもより資材を節約するシンプルなものに変わっていきました。しかし、欧米で実現していた部品の小型化などの本質的な技術革新が取り入れられることはなく、日本のラジオの技術レベルは欧米に比べて立ち遅れていくのでした。

戦時下のラジオ-1

1930年代後半から1940年頃の初期の戦時下のラジオの展示。左上はドイツ国民受信機。その右はドイツに影響を受けた放送局型第3号受信機を中国大陸向けに供給した「北支標準型第3号受信機」。下段は国策型と呼ばれた簡素化された普及型ラジオです。

1939(昭和14)年の価格統制令により物価が凍結され、1940(昭和15)年には奢侈品禁止令により、電蓄、蓄音器などの生産が禁止されました。同年には商工省告示によりラジオの種類が11種類に制限され、公定価格が定められました。こうして自由競争の時代から統制経済へと移行しました。
このような統制は技術の進歩を止めたというデメリットはあったものの、部品などの規格統一を進めたという一面もありました。

ラジオセットの供給はだんだん不自由になっていきましたが、生産そのものは伸びています。戦争のニュースへの関心の高まりと、各地に地方局が設立されて安価なラジオで受信できるエリアが増えたことから、1930年代後半は、新規聴取加入数が全国で伸びているのです。

戦時下のラジオ

日中戦争解決のめどがつかないままに、日本は1941(昭和16)年12月8日、連合国との戦争に突入しました。太平洋戦争の開戦です。戦争のニュースへの関心が高まるとともにラジオ聴取者およびラジオの生産も伸び、1941年末から1942(昭和17)年にかけてピークを迎えました。

放送局型受信機

戦時下の標準型ラジオとして各メーカが同じ形のものを生産した「放送局型受信機」の展示。上段左が初期の11号、右が近距離用の122号、下段がもっとも多く作られた123号とその梱包箱。

戦況地図

『大東亜戦争放送ニュース聴取用地図』(1942年)音だけのラジオニュースで戦況をよく理解するために作られた地図。これは日本放送協会が作成したものですが、多くの雑誌社や新聞社などから似たような「戦況地図」が作られ、付録などとして配布されました。赤い部分が日本が占領した地域ですが、いかに広い範囲に戦線を展開したかがわかります。

しかし、放送は戦時体制に入り、第二放送の中止、大電力局の出力削減、天気予報の放送中止(これはアメリカでも実施されました)、放送電波が方向探知に使われないようにするための防空を目的とした全国同一周波数放送(後に群別放送)などの措置が実施され、受信環境は確実に悪化していきました。

経済統制の実施とともに軍需生産が優先され、民生用ラジオの生産には制限が加えられるようになりました。この時期、技術的な進歩は停止したといってよいのではないでしょうか。ただし、この時期アメリカでは民生用ラジオの生産は禁止され、軍需生産に全生産力をつぎ込んでいたのです。

戦時下のラジオ-2

戦時下の各国のラジオの展示です。上段は1942年のアメリカ製。下段左は資材節約を徹底したドイツ国民受信機、下段右はイギリスの戦時標準型受信機です。ドイツでは隣のソ連の放送を聞けないように、あえて低性能のラジオが供給され、ユダヤ人はラジオを持つことも許されませんでした。

ドイツや日本では外国の放送を聴くことは厳しく制限されましたが、アメリカやイギリスではそうではありませんでした。上段右のモトローラのラジオは戦争が始まってからの製品ですが、海外放送が受信できる短波が付いたラジオで、ダイヤルに"TOKYO" "BERLIN"の表示があります。海外放送を聞いて東京やベルリンがなにか言っていたら知らせろということでしょうか。この表示は戦後、生産を再開した時には不要となってなくなります。アメリカでもアマチュア無線が禁止されたりしましたが、国民を信頼して協力を求められる国と、そうでない国との違いがよくわかります。

当初日本が優勢だった戦況は、1942(昭和17)年6月のミッドウェイ海戦以降、不利になっていきます。物資の欠乏が深刻になり、1943年以降ラジオの生産は減少に転ずるのです。企画展では、1942(昭和17)年8月13日の地元の新聞『信濃毎日新聞』を展示しました(著作権の関係で写真は省略)。実際にはこの前後2週間分の新聞を入手したのですが、なんともつまらないのです。不思議なことに地方紙のトップ記事が、連日欧州戦線など国際情勢ばかりです。我が帝国陸海軍の動静がほとんど伝えられていません。海軍はミッドウェイ海戦に負けて戦局が反転し、陸軍は中国で膠着状態になり、日本軍のニュースを載せられなくなったようです。まだ「大本営発表」がうそをつき始める前の動きです。新聞を読むには「何が書いてあるか」よりも「何が載っていないか」を考えることが大切だということを学びました。

戦時下の雑誌

戦時下の婦人雑誌と、切れた電球の回収を呼び掛ける週刊誌の広告。太平洋戦争が始まって半年後には切れた電球まで回収して再生しなければならないほど物資が不足していました。婦人雑誌は表紙から戦時色満載になりました。こうしなければ用紙が配給されず、発行できなかったのです。

写真週報

政府が発行していたグラフ誌(『写真週報』 昭和17年6月3日号)の記事。茨城県にあった国際電気通信(株)(現KDDI) 女子無電技術講習所の様子が紹介されています。招集で男性の技術者が不足したため、高所作業や高圧、大電流を扱う送信機の整備のような危険な業務に半年の講習を受けただけの素人の若い女性が従事していたのです。

4年(昭和19)年から、米軍の日本本土空襲が始まり、ラジオは防空情報を伝えるようになります。ラジオは、ニュースを聞いたり娯楽番組を楽しむだけの道具でなく、生命を守る必需品となったのです。しかし、空襲の被害や工場の疎開、物資の欠乏により、ラジオやラジオ部品の生産は急減し、新しく買うことができないだけでなく、故障したラジオの修理さえ満足にできないようになりました。

灯火管制

灯火管制用の暗幕。家の明かりが外に漏れると爆撃の目標になることから、光漏れが厳しく禁止されました。これを灯火管制と言いますが、一般家庭では電球の傘に黒い布をかぶせ、ふだんは上に上げて使用しました。

玉音放送(ぎょくおんほうそう)

1945(昭和20)年8月15日正午、昭和天皇自らが録音した「終戦の詔書」の放送をもってポツダム宣言受諾が、日本国民に知らされました。
多くの日本国民にとっては、初めて聞く天皇自身の声による放送というインパクトによって、現代まで、この日が「終戦の日」と認識されています
(国際法上は9月2日、戦艦ミズーリ号上での降伏調印をもって、正式に終結とするのが正しい)。

天皇の声=玉音を放送したことから、この放送は「玉音放送」と呼ばれています。わずか5分ほどの「玉音」の再生と、解説、ニュースで構成される37分のラジオ番組の放送によって、長く続いた戦争の終わりが告げられ、大半の国民が「終戦」を知ることになり、実際に終結しました。

玉音放送までの経緯

1945(昭和20)年8月10日午前6時45分、日本政府はポツダム宣言の受諾を外交公電として連合国に向けて通告しました。この通告に対する連合国側の回答を待って14日午前10時50分、ポツダム宣言受諾が確定されました。このあと「終戦の詔書」の作成が進められ、昭和天皇自身の録音によるラジオ放送で国民に伝えられることも決定していたので、録音の準備が進められました。しかし、詔書の文章の確定に手間取り、内閣の署名が完了して詔書が成立したのは14日深夜になっていました。このあと、詔書朗読の録音が宮内庁内で行われ、「玉音盤」が完成しました。玉音盤は15日朝まで宮城(きゅうじょう:皇居のこと)内宮内省(現宮内庁)庁舎に保管されることになりました。

録音機

玉音盤の録音に使われた円盤式録音機のレプリカとマイクロフォン(実際の録音ではフロアスタンドが使われた)。

14日午後9時と15日朝、ニュースの時間に国民に向けて予告放送が実施された。この予告では天皇みずから放送されるということが知らされましたが、内容には一切触れていません。

14日深夜から15日の早朝にかけて、一部若手陸軍将校による近衛連隊(このえれんたい:天皇を守護する軍の部隊)を動員した玉音放送阻止を目指した反乱が発生しましたが、宮内省を捜索しても玉音盤は発見できず、内幸町の放送会館を占拠した部隊も自らの意思を放送することはできませんでした。反乱は朝までに東部軍司令部により収拾されました。

15日正午、放送はぶじ全世界に向けて発信されました。国際法上の本当の敗戦は、9月2日のミズーリ号甲板で開催された降伏調印ということになりますが、8月15日の放送で全国民が「終戦」を知ることになり、実質的にほぼ戦闘が集結したという点でこの日を「終戦記念日」としています。放送は全部で約37分ですが、この放送によって戦争が終結したということほど、ラジオの影響力を示したことはないでしょう。

終戦の詔書

終戦の詔書のレプリカの展示です。このような重要な文書に傍線で消したり横から書き込みを入れて修正した箇所があるのも、この時の緊迫した事態を物語っています。さて、この詔書の全文を掲載します。まずは目を通してみてください。

大東亜戦争終結ノ詔書(終戦の詔書) 原文

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽

昭和二十年八月十四日 (注:審議され、署名されたのは14日です)

以下内閣副署(略)

注:内閣副署は省略、文字はJISフォントに準拠するため、原文と異なります。また、環境によっては正しく表示されないことがあります。
なお、原文は改行が少ないのですが、ここでは読みやすくするため文章の切れ目ごとに改行してあります。
(本資料は著作権法第13条の規定により著作権保護の対象となっていない。)

さて、非常にむずかしいですね。現代人がこの文章を見ながら録音を聞いても理解できない難解な言葉で書かれています。当時、公式の詔書は、このような難解な文章で書かれるのが普通でした。天皇陛下自身が書くのではなく、漢学の素養のある専門家が起草し、閣議決定して閣僚が署名し、天皇陛下の御璽(ぎょじ:印鑑)が押されて成立します。

これでは手も足も出ないので参考として『昭和史の天皇』第30巻 (読売新聞社 1968年)より、現代語訳を紹介します。

終戦の詔書 現代語訳

わたくしは、世界の情勢とわが国が置かれている現状とを十分考え合わせ、非常の手だてをもってこの事態を収めようと思い、わたくしの忠良な国民に告げる。

 わたくしは、わが政府をもってアメリカ、イギリス、中国、ソ連の四か国に対し四国共同宣言、ポツダム宣言を受諾するむねを通告させた。

 そもそも、わが国民がすこやかに、安らかに生活出来るよう心がけ、世界各国が共に平和を繁栄していくようはかるのは、歴代天皇が手本として残してきた方針であり、わたくしの念願を去らなかったところでもある。したがって、さきに米英二国に戦いを宣した理由もまた実に、わが国の自尊とアジアの安定を心から願ったためであって、いやしくも他国の主権を押しのけたり、その領土を侵略するようなことはもちろん、わたくしの志とは全く異なる。この戦争がはじまってからすでに四年を経過した。その間、陸海将兵は各所で勇戦奮闘し、役人たちもそれぞれの職務にはげみ、また一億国民も各職域に奉公して来た。このようにおのおのが最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしもわが方に有利に展開したとはいえず、世界の情勢もまたわれに不利である。そればかりでなく敵は新たに残虐な爆弾を広島、長崎に投下し、多くの罪なき人々を殺傷し、その惨害はどこまで広がるかははかり知れないものがある。このような状況下にあってもなお戦争を続けるなら、ついにはわが日本民族の滅亡をきたすようなことになり、ひいては人類が築きあげた文明をもうちこわすことになるであろう。それでは、わたくしはどうしてわが子どもにひとしい国民大衆を保護し、歴代天皇のみたまにおわび出来ようか。これこそわたくしがポツダム宣言を受諾するようにした理由である。

 ポツダム宣言の受諾にあたってわたくしは、わが国とともに終始アジアの解放に協力した友邦諸国に遺憾の意を表明しないわけにはいかない。また、わが国民のうち戦死したり、職場に殉ずるなど不幸な運命になくなった人々や、その遺族に思いをはせると、まことに悲しみに耐えない。かつ戦傷を負い、空襲などの災害をうけて家業をなくした人々の厚生を考えると、わたくしの胸は痛む。思えば、今後わが国が受けるであろう苦難は、筆舌に尽くしがたいものであろう。わたくしは国民の心中もよくわかるが、時世の移り変わりはやむを得ないことで、ただただ堪え難いこともあえて堪え、忍び難いことも忍んで、人類永遠の真理である平和の実現をはかろうと思う。

 わたくしはいまここに、国体を護持し得たとともに、国民のまことの心に信頼しながら、いつも国民といっしょにいる。もし感情の激するままに、みだりに問題を起こしたり、同胞がおたがいに相手をけなし、おとしいれたりして時局を混乱させ、そのために人間の行うべき大道をあやまって、世界から信義を失うようなことがあってはならない。このような心がけを、全国民があたかも一つの家族のように仲良く分かち合い、長く子孫に伝え、わが国の不滅であることを信じ、国家の再建と繁栄への任務は重く、そこへ到達する道の遠いことを心にきざみ、国民の持てる力のすべてをそのためにそそぎ込もう。そうした心構えをいよいよ正しく、専一にし、志を強固にして誓って世界にたぐいないわが国の美点を発揮して、世界の進歩に遅れないよう努力しなければならない。国民よ、わたくしの意のあるところを十分くみ取って身につけてほしい。
現代語訳:松崎昭一(読売新聞社記者)、校訂:安岡正篤(漢学者)

これだとよくわかりますね。当時の閣僚も、元のむずかしい文書を放送して国民が理解できるとは思っていませんでした。それで、国民に呼びかける「お言葉」の原稿を書こうとしたのですが、むずかしい詔書を書ける専門家も、当時は天皇陛下が直接国民に語りかけるということが全くなかったために、書き出しの言葉から詰まってしまったということだそうです。上の現代語訳ではご自身の事を「わたくしは」としていますが、ここをどうすればよいかが決められなかったとか。結局時間切れとなって詔書をそのまま読むということになったそうです。

大東亜戦争終結ノ詔書 帝国政府による英訳
The Imperial Edict of the End of the War , Imperial Rescript

玉音放送は海外放送を通じて全世界に英語でも放送されました。次に紹介するのは公式の英訳です。

Imperial Rescript, August 14, 1945

To Our Good and loyal subjects:

After pondering deeply the general trends of the world and the actual conditions obtaining in Our Empire today, We have decided to effect a settlement of the present situation by resorting to an extraordinary measure.

We have ordered Our Government to communicate to the Governments of the United States, Great Britain, China and the Soviet Union that Our Empire accepts the provisions of their Joint Declaration.

To strive for the common prosperity and happiness of all nations as well as the security and well-being of Our subjects is the solemn obligation which has been handed down by Our Imperial Ancestors, and which We lay close to heart. Indeed, We declared war on America and Britain out of Our sincere desire to secure Japan's self-preservation and the stabilization of East Asia, it being far from Our thought either to infringe upon the sovereignty of other nations or to embark upon territorial aggrandisement. But now the war has lasted for nearly four years. Despite the best that has been done by every one -- the gallant fighting of military and naval forces, the diligence and assiduity of Our servants of the State and the devoted service of Our one hundred million people, the war situation has developed not necessarily to Japan's advantage, while the general trends of the world have all turned against her interest. Moreover, the enemy has begun to employ a new and most cruel bomb, the power of which to do damage is indeed incalculable, taking the toll of many innocent lives. Should we continue to fight, it would not only result in an ultimate collapse and obliteration of the Japanese nation, but also it would lead to the total extinction of human civilization. Such being the case, how are We to save the millions of Our subjects; or to atone Ourselves before the hallowed spirits of Our Imperial Ancestors? This is the reason why We have ordered the acceptance of the provisions of the Joint Declaration of the Powers.

We cannot but express the deepest sense of regret to Our Allied nations of East Asia, who have consistently cooperated with the Empire towards the emancipation of East Asia. The thought of those officers and men as well as others who have fallen in the fields of battle, those who died at their posts of duty, or those who met with untimely death and all their bereaved families, pains Our heart night and day. The welfare of the wounded and the war-sufferers, and of those who have lost their home and livelihood, are the objects of Our profound solicitude. The hardships and sufferings to which Our nation is to be subjected hereafter will be certainly great. We are keenly aware of the inmost feelings of all ye, Our subjects. However, it is according to the dictate of time and fate that We have resolved to pave the way for grand peace for all the generations to come by enduring the unendurable and suffering what is insufferable.

Having been able to safeguard and maintain the structure of the Imperial State, We are always with ye, Our good and loyal subjects, relying upon your sincerity and integrity. Beware most strictly of any outbursts of emotion which may endanger needless complications, or any fraternal contention and strife which may create confusion, lead ye astray and cause ye to lose the confidence of the world. Let the entire nation continue as one family from generation to generation, ever firm in its faith of the imperishableness of its divine land and mindful of its heavy burden of responsibilities, and the long road before it. Unite your total strength to be devoted to the construction for the future. Cultivate the ways of rectitudes; foster nobility of spirit; and work with resolution so as ye may enhance the inmate glory of the Imperial State and keep place which the progress of the world.

The 14th day of the 8th month of the 20th year of Showa

古風で見慣れない単語が多い英文ですが、声に出して読んでみると格調高い堂々とした文章であることがわかります。この英文をGoogle翻訳にかけてみると、なかなかわかりやすい日本語になります(多少の誤訳は入りますが…)、一度お試しください。

ラジオの戦後復興

企画展では戦後復興期のラジオ及び資料を併せて展示することで、時代の大転換を日本人がどのように乗り切り、今の日本の原点となったかを考える展示にしました。この部分は「焼け跡のラジオ」展にくわしいのでこちらを参照してください。ここでは企画展で展示した戦後の興味深い資料を紹介します。

浪曲チラシ

終戦直後のものと思われる浪曲のチラシです。当時、占領したGHQは、あだ討ちや武士道に対して神経質になり、浪曲の多くが上演を禁止されました。それではということで、なんと玉音放送の顛末を浪曲にしてしまったもの。チラシには「只一人占領軍より認可を得し」・・・確かにこの内容ならパスしたでしょう。戦後の日本人のバイタリティが感じられる資料です。

企画展概要

企画展名:
「ラジオと戦争」-戦後70周年記念展-
開催期間:
2015年7月4日- 2016年1月10日

出展目録

ポスター

住所、連絡先等は開催当時のものです。

館長のひとりごと

今までで一番力が入った企画展かもしれません。ラジオを中心としながらも、戦時下から戦後復興の時代の生活や事情を表す幅広い資料も含めて展示しました。

松本市は平和都市として、松本市立博物館で毎年、夏の時期に平和展示を実施しています(2021年は移転工事中で閉館)。当館でも、内容の点ではコラボというわけではありませんでしたが、専門のラジオを通して戦争を考える展示にしました。この年、松竹映画の「日本のいちばん長い日」のリメイク版にラジオや録音機などで協力した関係で、映画で使用した玉音放送関係の貴重な資料を提供いただき、深みのある展示にできました。

戦争を実際に経験した人も少なくなりました。遠い暗い時代と思うかもしれませんが、ひるがえって今(2021年)、見えない敵と戦っている現代はどうでしょうか。物流、物資供給の混乱、「戦費」の急増による財政の悪化、マスコミの論調・・・。なにか共通することはないでしょうか。現代は一種の戦時下、とする考え方は間違っていないと思います。今は「平時」ではない、という意識は持ったほうが良いと思います。

太平洋戦争当時の人々も、戦時下の生活に疲れることもありました。お酒も飲みたかったし娯楽も必要でした。「空襲慣れ」で、警報のサイレンが鳴っただけでは防空壕に避難しなくなっていた人々も、原爆投下のニュースの後は真面目に避難するようになったとか。人間の本質はそれほど変わっていません。歴史に学ぶことは大切だと思います。

戦争のために1940年に東京オリンピックが中止になり、戦後復興の総仕上げとして1964年に華々しく開催され、そして今、このような状況になっています。家にいる時間が増えている昨今、歴史の事を調べてみるのも良いでしょう。新館ではこれほどの規模の展示はできませんが、今、戦後復興をテーマに戦後75周年記念展になるはずだった企画展を1年遅れで開催しています。
引き続き戦争に関する展示を企画していきたいと思います。

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