見出し画像

「ラジオのデザイン」展

ラジオはつねに最新のデザインのトレンドを取り入れてきました。この特別展では、ラジオのデザインの変遷に着目し、当館のコレクションから戦前期の海外製ラジオ、戦後についてはGマーク選定商品を中心に、日本を代表する優れたデザインのラジオ、テレビを展示しました。

無線機からインテリアへ

ラジオ放送開始以前、ラジオは「無線機」の一部でした。無線機は船舶や無線局に据え付けられるものでした。一般向けのラジオ放送が開始されると、その無線機が家庭で使われるようになりました。初期のラジオは、回路通りにパネルにツマミを並べただけのもので、部品がむき出しのものも多く、扱いにくいものでした。

画像1

フリード・アイズマン NR-5 (1923年アメリカ)
ラジオ放送が始まった頃の高級ラジオの一つ。ねじがむき出しの黒い樹脂製パネルに同じ形のツマミが並ぶ。たくさんのツマミを正しく調整しないと受信する事すら満足にできない使いにくいものでした。機能的ではあってもデザイン不在の時代でした。

ユーザーが技術を持ったプロや愛好家だけの頃はそれで良かっのですが、家庭の居間で放送を楽しむようになると、専門知識のない家庭の主婦や子供も使うようになり、むき出しの部品や配線は隠され、操作も洗練されてきました。

産業革命以来19世紀から1920年代前半まで、機械製品はただ動作することだけを考えて作られた無骨なものか、工芸品のように過剰な装飾を施されたものが大半で、操作性や環境との調和を考慮してデザインされた機能的なものはほとんどありませんでした。

1920年代、ドイツのバウハウスを代表とする大量生産と機械化を前提とした合理的なデザインが提唱され、1930年代に入ると、レイモンド・ローウィ を代表とする工業デザイナーが主に大量生産、流通のスタイルが確立していたアメリカで活躍し、製品の意匠やCIを設計する「インダストリアル・デザイン」が確立しました。

画像1

1930年代を代表するモダンデザインのラジオ。Majestic 463 (1933年アメリカ:上段)とEcko A.D.75型(1940年イギリス:下段)
ともに当時日本製のコピーが存在しました。特にプラスチックでないとできない形というコンセプトで作られた円形の箱も日本では木で作ってしまいました。

1930年代以降、ラジオにはこのような新しいデザインの流行が取り入れられ、プラスチックなどの新しい素材の導入と小型化により、優れたデザインの製品が生まれました。

戦前期の日本では、工業デザインという概念はほとんどなく、デザインは外観の意匠、飾りとみられていました。ラジオのデザインについても、オリジナルなものがないわけではありませんが、多くは海外製品の模倣でした。技術水準も低く、ほとんど輸出されなかったため、この頃は大きな問題にはなりませんでした。

画像3

戦時中のラジオ。左下はドイツの小型受信機(1938年)。上段と下段右は日本製ですが、当時流行していたアールデコのモチーフを取り入れていることがわかります。物資が不足して簡素なデザインが求められた時代でしたが、簡潔な直線と円で構成されたモダンデザインはその路線に合うものでした。当時のデザイナーが少しでも豊かなデザインにまとめようとした努力の跡が見られます。このあとは、とてもデザインどころではなく、どんどん戦況が悪化して終戦を迎えるのです。

画像2

1940年代後半のラジオの展示。上段左は1942年の米国RCA製。右は1948年の松下のもの。アメリカ製はプラスチック製ですが、松下は何とか真似しようと一生懸命木材で似た形にまとめ上げました。中段は戦後すぐにデザインを売りに創業した東京工芸という小メーカのラジオ。兵器のスクラップが豊富に出回っていたアルミの鋳物でユニークな形を作り出しました。ただ時代が早すぎてこの会社は長続きしませんでした。下段は1950年のアメリカGEのラジオ(左)と日本製のコピー。コピーのほうが造形が甘いことがわかります。木で無理やりにまねしていたころのものはまだほほえましい努力の結晶ともいえますが、日本のメーカは数年で同じ材質のコピーができるようになりました。これも努力の結果には違いないのですが、このやり方は大きな問題を起こすのです。

模倣から工業デザインの確立へ
Gマーク選定制度の開始と発展

1950年代前半、日本の国際社会復帰とともに海外への輸出も盛んになりましたが、輸出された製品の多くが欧米製品のデザインを模倣した粗悪品でした。1ドル360円の為替レートと低い人件費を利用した低価格のコピー商品の大量輸出は、欧米各国との国際問題を引き起こしました。

同時にこの時代は、日本の工業デザインの開花期といえます。1951年にアメリカを視察してデザインの重要性に気付いた松下幸之助は、千葉大学から真野善一を招聘し、製品意匠課を設置し、自社のデザインの確立を目指しました。同年、日本の政財界が招いたアメリカの名デザイナー、レイモンド・ローウィは日本の産業界に大きな影響を与え、同氏がデザインを改善したタバコ「ピース」のパッケージは、大卒初任給が5千円程度という時代に150万円という高額なデザイン料とともに話題となり、工業デザインの価値を一般に知らしめることとなりました。

画像6

レイモンド・ローウィがデザインしたタバコ「ピース」のパッケージと、著書『口紅から機関車まで』の翻訳本(初版) 1953年
(この準備中の写真では健康上の注意が追加されて元のデザインが崩れた現代のパッケージを置いていますが、本番では注意書きのない古いパッケージを入手して置き換えました)

1952年にはJIDA(日本インダストリアルデザイナー協会)の創立、毎日新聞による第1回新日本工業デザインコンクールが開催され、柳宗理がデザインしたコロムビアの電蓄が特選一席に選ばれました。第2回の同コンクールでは松下の真野によるナショナルラジオDX-350型が特選2席を受賞しました。初期の日本の優れたデザインには、これらのラジオの他に小杉二郎による蛇の目ミシンやマツダ三輪トラック、GKインダストリアルデザインによるヤマハのバイクなどがあげられますが、これらはいずれも当時の日本を代表する民生用工業製品でした。

画像7

ヤマハAMチューナR-2型 (デザイン:榮久庵憲司 1952年)
GKインダストリアルデザインを率いる榮久庵憲司がヤマハのためにデザインしたもの。昭和20年代とは思えない当時の水準をはるかに超えたデザインです。パネルのレイアウトにはあらゆる部分に黄金比が取り入れられているといわれます。(写真は左のツマミの飾りが失われています)

42051-front - コピー

コロムビアRG-700型 卓上電蓄 (デザイン::柳 宗理 1952年)
1952年の第1回新日本工業デザインコンクールで第1席に選ばれた作品。1954年には他機種と共通のプレーヤ部を変更したRG-701型に変更されたものの外観は全く変わっていません。日本の工業デザインの黎明期を飾る傑作のひとつです。

画像8

ナショナルDX-350型、デザイン:真野善一 1954年
欧米を視察してデザインの重要性に気付いた松下幸之助は千葉大から真野善一を招聘し、製品意匠課を設置しました。これはその初期の成果で、和の要素を採り入れた直線的なデザインで第2回新日本工業デザインコンクール特選2席を受賞しました。

これらの民間の動きと別に、通産省では輸出時のデザイン盗用防止と日本製品のデザインの向上のために、1957年にグッドデザイン選定制度を開始した。当初は審査委員会が市場にある製品から対象製品を選定する方法でしたが、1963年からは企業からの申請による審査に変更されました。ソニーと松下電器はGマーク申請に熱心で、Gマーク選定商品を中心にまとめたこの展示においてもこの2社の製品が中心となっています。

画像9

ソニー TR-610型 (デザイン:山本孝造 1958年)
この小型ラジオは欧米で大ヒットし、多くの模倣品が出るまでになりました。それまでコピーする一方だった日本製品がはじめて?模倣された記念すべきデザインです。1960年代、日本製トランジスタラジオはアメリカ向けを中心に主要な輸出商品に成長しました。

高度成長後のデザイン
1970-80年代のトレンドとデザイン

1970年に、大阪万国博が開催され、前年のアポロの月着陸関連の展示が人気を呼びましだ。このころ、「スペースエイジデザイン」とのちに呼ばれることになる独特な曲線を持ったプラスチック製の家具や家電製品が作られました。未来や宇宙をイメージしたこれらの製品は一部での流行に終わりましたが、大量生産のプラスチック製品の無限の供給を前提としたものでした。現実には公害など高度成長の負の面が表れ始めていました。

画像5

1970年代初めの展示。パイオニア・セパレートラジオR-200 (上段:1972年)、宇宙服のヘルメットをイメージしたナショナルTR-603型テレビ(下段左:1972年)、ユニークなデザインのナショナル「パナペット」シリーズ(下段中、右:1970年)

このような大量生産、大量消費社会の夢は、1973年の石油ショックにより打ち砕かれました。工業製品や生活そのものに省資源や環境との調和が求められるようになり、デザインも変化していきました。

「日経ビジネス」1981年11月30日号に「軽薄短小」という言葉が初めて使われました。これは安定成長時代のキーワードとして時代のトレンドを明確に表していました。日本はハイテク技術を駆使して超小型の電子機器や燃費の良い自動車などを量産し、世界をリードしたのです。

エレクトロニクスの進歩により、従来、機械式のつまみやダイヤルで実現されていたテレビやラジオの機能が、プッシュボタンやデジタル表示に置き換えられていきました。1980年代以降のマイコンの進化は、この傾向を進め、製品は、テレビなどリモコンを多用して本体をシンプルにしたものと、ラジカセなど、多機能を強調したものに傾向が分かれていきました。
1980年代のバブル景気の時代には、高級な製品の登場とともに、実験的なユニークなデザインの製品が多く生まれた時代でもありました。

画像9

1970年代末から80年代の展示。中段は初代ウォークマンとその原型(1979年)、直線的で多機能な80年代初めのハイテク風デザイン(上段)と、80年代後半のやわらかい曲線を多用したデザイン(下段)の対比がおもしろい。

Gマーク選定制度は社会に定着しました。この賞は、順位を付けることが目的ではなく、ある水準を満たしている製品を選定するものであることに特徴があります。1980年からは優秀なものに「部門別大賞」や部門賞が設けられ、コンクール的な側面も強くなりました。1998年には日本産業デザイン振興会に継承され、その後も審査対象の拡大や各賞の追加などの変更を加えながら現在に至っています。

企画展概要

企画展名:
「ラジオのデザイン」-メカからインダストリアルデザインへ-
開催期間:
2014年11月22日- 2015年6月19日

出展目録

ポスター

連絡先や住所は開催当時のものです。

館長のひとりごと

「工芸の五月」への参加を控えて、すこしラジオマニア寄りの路線から高尚な?路線の企画展をやってみたくなりました。そこで選んだのが「デザイン」です。戦後のGマーク受賞作についてはそこそこそろっていました。Gマークやインダストリアルデザインの本を集めて企画を練りました。

ただ、ちょっと厳しいところもありました。実は、「バウハウス」「アールデコ」「スペースエイジ」など、カテゴライズされているような先進的なデザインのラジオやテレビは、美術的価値も出て極めて高価なものが多いんです。こういったデザイン史に残る価値の高い「とんがった」デザインの製品は多くの人に売れたものではなく、もともと数が少なかったり高価だったりするので、1930年代の欧州製品の一部は数千ドル以上の値が付くものが珍しくありません。当館ではとても手が出ません。戦前のモダニズム系のデザインのものも入手しやすいものを並べて格好を付けましたが、ちょっと物足りない展示になりました。

説明書きにデザイナーの名前と「木材・布」など素材を表示するなど、美術館を意識した説明を付けてみたりしました。力を入れた割には客層が少し違ったのか、いまひとつ受けなかった企画展でした。今から思うと、デザインをテーマにするには展示ケースやポスターなども含めて展示のセンスが悪すぎたような気がします。できればもう一度チャレンジしたいテーマです。

注意しないといけないのは、グッドデザインとして評価されがちなシンプルで美しいモダンデザインが、必ずしも売れたものではないことが多いということです。実際には平凡で過剰な装飾が付き、多機能な製品のほうがヒットしたりします。日本刀のような研ぎ澄まされた美しいデザインのものというのは、持つ者に緊張感を与えてしまうのかもしれません。デザインというのは難しいものですね。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集