企画展:BCLブームに至る海外放送受信の歴史
はじめに
1975年頃からタイトル写真のような立派なラジオが流行し、海外の短波放送を聞く"BCL: Broadcasting Listening " が流行しました。現在(2023年)50代から60代の、特に男性にはご記憶の方も多いと思います。2024年度の企画展では、BCLブームに至る海外放送受信の歴史を取り上げます。
企画展概要
開催場所:日本ラジオ博物館企画展示コーナー
開催期間:2024年4月21日(日)~12月15日(日)
注)4月13/14, 20日は、内覧会を予定していますが、一般の見学も可能です
開館日:土日祝日
GW期間:5月3日~5月6日
夏休み期間:8月10日~18日
短波通信の始まり
電波が使われ始めたころ、丸い地球上でできる限り遠くへ電波を飛ばすために電波の波長を長くすることが行われました。このため、初期の長距離の無線通信には現在でいう長波帯(300kHz以下)が使われました。1920年代前半、当時のアマチュア無線家の活動を通じて、波長が短い短波帯(3-30MHz)の電波が、空中の電離層(1902年にヘビサイドらによって予測されていましたが、観測されたのは1925年のことです)と地上を反射しながら進む特殊な伝搬方法により、小電力で長距離の通信に使えることが実証されました。
世界初の短波による交信は、1923年にマルコーニをはじめ、欧米の多くの
アマチュアによって確立されたとされています。今年(2023年)はちょうど100年目ということになります。
同時期にラジオ放送が始まり、業務用公衆無線(船舶電報など)に割り当てれれていた1MHzを中心とした中波帯はラジオ放送に割り当てられるようになりました。その後、長波や中波を使っていた長距離の業務用無線は短波に移行することになりました。
この時期は今でいう長波が標準だったために、現代の中波のことを短波、短波のことを超短波と記述している資料があるため注意が必要です。また、短波による国際放送が始まる前には中波帯の放送を受信するマニアのことをBCLと呼んでいたこともあるのでなかなか厄介です。BCLはブームの時に日本でできた造語といわれていますが、実際にはかなり古い言葉のようです。
国際放送の始まり
1920年代に各国でラジオ放送が始まると、東南アジアに植民地を持っていたオランダが長距離通信ができる短波の特性を生かして、1928年に植民地向けの海外放送を初めて実施しました。当時、世界で唯一の社会主義国だったソ連は、政治宣伝のために1929年に海外放送を開始しました。続いて、1930年代に入ってアフリカやアジアに多くの植民地を持っていたイギリスやフランスも開始、日本は放送開始10周年となる1935年に移民が多かったハワイ、米西海岸向けに国際放送を開始しました。国際放送は通常国営で行われますが、日本では当初から国営ではなく、日本放送協会の予算で運営されていました。これは現在のRADIO JAPANも変わらずNHKの予算で運営されていて、特徴的です。
アメリカは、全放送局が民間放送という特異な制度だったために広告放送が禁止されていた短波放送に進出できず、開始が大幅に遅れ、第2次大戦勃発後に国営化されてVOA(Voice of America) となった1942年から本格的に開始されました。
戦前の日本における海外放送受信
昭和の初めから短波は当時の最新の無線技術としてアマチュアの関心を呼び、『無線と実験』などの技術誌には多くの短波受信に関する解説記事や短波受信機の製作記事が掲載されるようになりました。しかし、当時は中波帯(550-1500kHz)の放送を受信するラジオ以外は容易に聴取許可が下りませんでした。基本的に禁止されていたといってよいでしょう。これに対してアメリカやイギリスでは受信に対して厳しい規制はありませんでした。
このアメリカ製小型ラジオは、警察無線を傍受できることを売りにしたものです。警察無線を傍受できる家庭用ラジオなど日本では考えられなかったでしょう。
昭和初期までは、受信のみの局であっても設置者の経歴などによっては許可されることもあり、1934年には通常のアマチュア無線局162局に対し、15局が受信局として許可されています。ただし、実験局として受信のみは基本的に認めない方針でしたので、ごく例外的なものでしょう。
このようにわずかながらアマチュア無線は許可されていました(当時はアマチュア局という概念がなく、大学の研究用やメーカの開発用の局と同じ実験局として許可されました)ので、短波通信がすべて不許可というわけではありませんでした。ただし、誤解してはいけないのは、現在でもアマチュア無線は「アマチュア局との交信」に限って免許されていることに注意が必要です。現在は受信は自由なのでアマチュアバンド以外の電波を出さなければ問題ありませんが、当時はアマチュア局との交信に限って許可されたので、建前としては実験局の免許があっても、海外放送を聞ける許可が下りているわけではありませんでした。当時の日本ではアマチュア無線人口は極端に少なく、無線機は手作りが一般的でした。
これに対してアメリカやイギリスでは短波受信が禁止されることはなく、アマチュア無線が盛んであったので、メーカー品の通信型受信機がたくさん市販されていました。
当時の日本でも、ラジオ産業の振興や技術の発展のために短波受信を許可して短波が聞けるラジオ(All Wave を訳して全波受信機と呼んだ)の量産が必要との意見は官民ともにあったのですが、スパイ摘発の手段が失われることから警察を管轄する内務省が認めなかったようです。このため、日本の短波受信機は業務用と、外地向け輸出用として少数が作られるだけでした。
この写真のような日本製の短波受信機もありました。ごくわずかに許可された外務省などの官庁や放送協会の国際放送部門、警察の外事部門などで使われたと思われます。仕様は先に紹介したハリクラフターズの受信機とほぼ同じものですが、価格は850円と極めて高価でした。たとえ戦前に短波が許可されたとしても、このようなものしかなければとても普及しなかったでしょう。1ドル=4円で換算すると212ドルとなり、アメリカ製の市販の中級通信型受信機の4倍、ちょうど最高級のスーパープロやSX-28などと同等のの価格となっています。
アマチュア用の通信型受信機や家庭用の全波受信機が大量生産されていたアメリカと、ごくわずかの業務用製品が手作りされていた日本とで、戦争が始まってからの生産力と品質の大きな差となりました。
許可されないといいながら、『無線と実験』誌などを見ると、太平洋戦争が始まるころまで「其の筋の許可を要します」との但し書き付きながら短波受信機の製作記事や「DX COURNER」というタイトルの海外放送のページが掲載されていました。専門誌のため普通の人が手に取ることはなかったでしょうが、だれでも書店で買える雑誌に海外放送や短波受信機の情報が掲載されていたのです。さすがに太平洋戦争がはじまってしばらくすると「DX COURNER」はなくなりますが、海外の情報は敵を揶揄するオブラートに包まれながらも結構掲載されていました。このような専門誌の場合、中身の技術的な記事の検閲がそれほど厳しくなかったのかもしれません。同誌は立ち回りがうまいというか、表紙に兵器の写真と「無線報国」の文字を載せ、巻頭言に軍人の演説を掲載することで国策に忠実な顔を見せることで、終戦まで発行が継続されました。
ナチスドイツでは、すぐ隣にソ連があるという地政学的な状況から非常に厳しく取り締まられたのですが、日本では技術的な情報についてはお目こぼしがあったようです。また、許可されないといいながら海外の全波受信機が輸入され、貿易商などで堂々と売られていました。聴取許可は下りないものの、輸入販売や所持は禁止されていなかったという、所管官庁の縦割りによる法律の抜け穴のようなものだったようです。
日中戦争がはじまると規制が厳しくなり、短波受信機の販売や取引にも制限がかかるようになりました。緩かった規制が明確化され、短波帯が不許可というだけでなく、放送協会との受信契約によって、中波帯であっても放送協会以外の電波、たとえば朝鮮半島や満州国などの日本語放送、これらは日本人が関与していたので内容は問題ないはずですが、規約上聞くことは許されませんでした。太平洋戦争開戦後は受信機の取り締まりも厳しくなりました。
このように一般の短波受信機の所持を厳しく取り締まるだけでなく、放送協会に提出された受信契約の中から、外国人のもの、外国製のラジオを持つもの、電波の強い地域に居住していながら必要以上に高性能なラジオを使うものなどをピックアップして「要監視者」として放送協会から当局へ通報させるシステムができていました。
太平洋戦争開戦後はアマチュア無線局も使用禁止となり、閉鎖されました(これはアメリカも同様)。違法行為と分かっていても短波受信には魅力があり、特に当時は唯一の海外の新鮮な情報を得る手段でした。このため、アマチュアの中には簡単な短波受信機を組み立ててこっそり聞く者がいました。
これは当時の短波受信機を想像して復元したものですが、廃品の古いラジオのコイルを改造してスピーカをレシーバにしただけのものです。この程度のものでも大電力の海外放送局なら受信できました。ちょっとしたラジオを組み立てられる程度の技術と知識があれば簡単にできるので、このようなことをやる人は後を絶たなかったようで、技術者を抱えるメーカや放送局、工科系の大学などからは学生や職員に対して「絶対にやらないように」というお達しが出されています。
なんでも秘密にして隠したがる日本やドイツとアメリカは違っていました。アメリカでは総力戦対応のために家庭用のラジオや自動車の生産は禁止されますが、次に紹介するのは禁止直前の製品です。
短波が付いた平凡な家庭用ラジオです。当時の短波ラジオにはダイヤルに放送局の地名を表示することが多かったのですが、この機種にはわざわざ TOKYO, BERLIN, ROME という敵国の局の位置が表示されています。これ以前の戦前のモデルや戦後のモデルには見られません。よく聞いて何か言っていたら教えろということでしょうか。国民を信頼できて協力させられる国と、不都合なことは隠しておかないと心配になる国の違いが表れています。
このようなアメリカのアマチュア用通信型受信機は、多くが軍用に採用されて家庭用ラジオの生産が禁止されても終戦まで生産されました。さすがにアメリカの生産力でも生産が不足し。アマチュア用無線機の買い上げや中古メータや部品の回収が行われました。
多くのアマチュア無線家が徴用されて使い慣れたものと同じ受信機を与えられ、敵国の放送や無線を傍受する業務に就きました。無線機や自動車を大量生産できる工業力だけでなく、だれでも自動車の運転ができ、層の厚いアマチュア無線家がいて、農家が自家用飛行機で農薬をまくような国民の技術水準の違いも戦争の行方に影響したように思います。
短波受信の許可
敗戦後、日本は連合国に占領されました。GHQ(連合国軍総司令部)は、占領直後の9月18日に短波受信を許可しました。といってもその前に日本政府では、内務省が海外放送受信を禁止する理由がなくなり、短波受信を許可する方向で閣議了解が得られていたということです。短波受信が許可されたことで、1946年以降多くのメーカが短波を聞ける全波受信機を発売しました。
このような市販の全波受信機は非常に高価だったので庶民には手が届かないものでした。どうしても短波を聞きたいアマチュアは受信機を自作しました。
アルミシャーシにパネルを付けてバーニヤダイヤルを使うこのスタイルは、手作り短波受信機の典型的な形で、1970年代頃まで存在しました。
これに対してアメリカでは戦後アマチュア無線が再開され、戦前同様安価なものから高級品まで様々な短波受信機が量産されていました。
これは家庭用ラジオに毛が生えた程度の普及品ですが、主要な海外放送を聞く程度なら十分実用になります。このデザインはのちに多くの日本のメーカがコピーしました。ここに紹介したものは、ニューヨークに赴任した日本の新聞社特派員が現地で購入して持ち帰ったものです。
この、手で下げて歩くにはちょっと大きなトランク型のポータブルラジオは、本来大型ヨットに積んで使うために作られたものです。自家用の小型飛行機に搭載することも考えられていました。こんなものを量産してしまうような豊かな国と戦争してしまったのですね。
アマチュア無線が許可されるまで、そして許可されてからの一時期、日本アマチュア無線連盟(JARL)は、短波受信活動(SWL)を奨励していました。もちろん受信だけではコールサインは与えられませんが、JARL独自のSWLナンバーを付与し、アマチュア局との受信報告書のやり取りに便宜を図りました。海外放送受信の傍らアマチュア無線の交信を聞いて関心を持ってくれればという意図で、SWLはアマチュア無線に進む練習のような位置づけでした。
戦後、米軍から戦時中の軍用無線機が放出されるようになりました。
通信型受信機の最高峰ともいえるスーパープロ。このクラスになると中古の放出品といっても極めて高価で、一部の富裕層やプロが使うものでした。
通信型受信機はこのように大きく、重いものでしたが、1950年代末に米コリンズ社から画期的な新製品が発売されました。
Sラインと呼ばれた新製品は、従来の重量級の通信型受信機を小型でスマートにしたもので、その後のアマチュア無線機に大きな影響を与え、このデザインやサイズがその後の無線機の標準的なスタイルとなりました。Sラインは1970年代まで継続して販売されましたが、高価で日本では一部の富裕層のアマチュア無線家が使うものでした。
日本短波放送の開局と短波の普及
戦後、短波が許可されたといっても、実際にはよほど海外の情報や語学に関心がない限り、高価な全波受信機を買ってまで海外放送を聞こうという人は多くはありませんでした。このため全波受信機は売れず、困ったメーカは当時短波で中継されていたNHKの第2放送をどこでも容易に聞けることを売りにして宣伝するありさまでした。
1954年に民間放送として最初の短波放送局、日本短波放送(NSB:現ラジオNIKKEI) が開局しました。当たり前ですが全国放送が簡単にできる特徴を生かして株式、宗教、教育などのユニークな内容を中心とした放送局でした。ちょうど現在の地上波テレビに対するBS放送のような位置づけといえます。
民放の短波局ができたことで2バンドの短波受信機の物品税率が下げられ、中波専用ラジオと同じになりました。NSBは、現代と同じような野球の全中継を中波局に先駆けて始めたので、競馬放送と合わせて野球ファンにも人気がありました。そこで安価な短波ラジオが発売されました。
海外放送受信がメインだったころの2バンド型ラジオの短波のバンドは、放送の帯域をカバーするために6-18MHz とするのが一般的でしたが、NSB開局後は、時間帯で使い分けるNSBの3つの周波数をカバーする3.7-12MHz のバンドに変わりました。
1960年代に入ると、家庭用ラジオは真空管式からトランジスターラジオに移行していきました。1950年代の発売当初は短波受信の実現が技術的に無理があったトランジスターラジオも短波付き2バンドが当たり前になりました。
1960年代前半には短波付きのラジオが全体の9割を超えるようになりました。その気になればラジオ少年たちも家庭にあるラジオで容易に海外の短波放送に触れることができたのです。1961年の『無線と実験』誌には、石川俊彦氏が「BCLの在り方・考え方」のタイトルで、初心者向けの海外放送受信の、かなり長い解説記事を書いている。「BCL」という用語を、海外放送受信の意味で使った例としては古いほうではないだろうか。この記事の中でも、広く家庭に普及した2バンドラジオを使って海外放送を聴いてみることから始めることを勧めている。
1958年に入門者向けの電話級、電信級の資格が新設されたことでアマチュア無線人口も増え、多くの部品メーカから通信型受信機用の部品が発売されただけではなく、組み立てキットがメインではありましたが、完成度の高い受信機が発売されるようになりました。春日無線(トリオ)の9R-42や9R-59 はその代表的なモデルです。トリオや八重洲など、のちにアマチュア無線用機器の代表的なメーカに成長する企業だけでなく、中小、零細企業からも受信機などのキットが発売されました。次に紹介するのはその一つです。
これは海外放送受信用というよりも、市民無線用のバンドでの実験を主な目的とした簡易型の受信機です。同じサイズでトランシーバのキットもありました。初心者向けの技術誌(『ラジオの製作』『初歩のラジオ』など)や少年誌にも広告が毎号出ていたのでご記憶の向きも多いのではと思います。
日本製短波ラジオの海外進出
戦後、アメリカ製のコピーから始まった日本のラジオですが、1960年代に入るとトランジスターラジオが大量に輸出されるようになり、貿易摩擦を引き起こすようになりました。そこで、日本政府は安物の集中豪雨的輸出ではなく、利益を稼げる技術的に高度な高級品の輸出を奨励するようになりました。高度な製品には、FMラジオやカーオーディオとともに、先に紹介したトランス・オーシャニックの流れをくむマルチバンドラジオも含まれていました。
長波、中波、短波、FMが受信できる高級ラジオです。金属部はすべて無垢の鋳物という豪華なつくり。自動車を使う前提なのか軽くしようとは思っていないようです。当初は輸出用だけでしたが、高度成長で日本が豊かになると国内販売も始まりました。
「ワールド・ゾーン」というと、BCLラジオのスカイセンサーの上位機種と思いがちですが、実はマルチバンドラジオのシリーズ名としてBCLブームの前からあったのです。輸出用には "World Zone" ではなく、"Earth Orbiter" の名称で発売されました。この高級機も1960年代末頃から国内販売されるようになりましたが、当時は極めて高価でした。マルチバンド・ラジオは、機能的にはBCLラジオに近いものがありますが、あくまでもアメリカ向けの製品で、後のBCLラジオとは性格が異なります。 60年代風のデザインですが、BCLブームのころまで変わらずに販売されました。
1960年代後半から70年代にかけて日本の民生用電子機器の対米輸出が増え、テレビ、ラジオだけでなく、アマチュア無線機器もOEMが中心でしたが大量に輸出されるようになりました。今の中国と同じですね。
短波ラジオの衰退
1960年代前半までは、ラジオといえば中波(535-1605kHz) と、NSB受信に適した短波 (3.8-12MHz) の2バンドというのが標準的でした。しかし、1960年代後半から全国に広まったFM放送が人気を呼び、多くのラジオから短波が落とされ、FM-AMという構成のラジオが増えていきました。
これに対してNSBは、人気があったナイター全中継は中波民放局の編成の変化で中波局がナイター中継に力を入れるようになって中止となり、競馬や株式、受験講座といった特殊な目的を持ったリスナーが聞く放送局になっていました。この頃、メーカ各社が発売するようになったのがNSBに特化した特殊なラジオでした。
専用ラジオといえば聞こえが良いのですが、家庭用ラジオにすべて短波が付いていた時代から、NSBが必要な人は専用ラジオを買って聞くメディアになっていたのです。
BCLブームの始まり
このような短波ラジオ冬の時代にあって、相変わらず短波のバンドを備えていたのは、とにかく多機能なことが喜ばれた若者向けのラジオでした。代表的なモデルはソニーのソリッドステートイレブン、ナショナルのワールド・ボーイや東芝のサウンド750(ナナハン)シリーズでした。これらは男の子が喜ぶ多機能満載のメカで、上位機種には、大きな声で呼べば聞こえる程度の距離しか使えないトランシーバ機能が搭載されているモデルまでありました。
1972年、若者向けAM-FM-SWの3バンドラジオに、ソニーから特異なデザインの製品が発売されました。スカイセンサー5500です。
この機種は、中身は今までの多機能3バンドラジオですが、ラジオといえば横長が常識の時代に、業務用トランシーバをイメージした縦長のデザインを採用したのが特徴です(当時のソニーは据え置き型ラジオやテレビでも縦長のデザインを採用した機種があり、自社デザインのトレンドのひとつと考えていたようです)。ソリッドステートイレブンに代わる新シリーズの名称も高感度を連想させるものです。いくら人のやらない製品に挑戦するソニーといえども、このデザインはあまりに個性的で不安を感じたらしく、平凡な横型デザインのICF-5400を用意したほどですが、この無線機風の精悍なデザインの新製品は人気となりました。翌年、ライバルの松下電器からも新製品が発売されます。これがクーガ・シリーズです。
どこかスマートさを感じるソニーに対して、こちらはミリタリー調のごついデザインが特徴です。上部の「ジャイロ・アンテナ」がクーガの特徴ですが、これは短波用ではなく、遠方の中波局を受信するためのものです。ラジオごと向きを変えればよいのですが・・・、あえてアンテナを外に出して「方向探知機」風に使えるのが魅力でした。ダイヤルも方向探知機風のデザインです。クーガにはこの感度重視のモデルの他にオーディオ性能を重視した大型スピーカを搭載したRF-888型もあり、幅広いユーザに訴える戦略をとっていました。ちなみに、初期のモデルでは理工系の文書表記の約束である末尾の”-”を書かない「クーガ」が正しい表記です。
こんな時代に、遠くの放送局をとらえるロマンを感じさせるラジオが代表的なメーカ2社から発売されたのです。
BCLブームの起源については諸説あるかと思いますが、高級ラジオを売りたい電機メーカと、いまひとつ聴取者が伸びないNSBの思惑が一致したことは間違いないでしょう。
BCLブームのはじまり
スカイセンサー5500発売の翌年の1973年、無線機風のデザインの3バンドラジオだったスカイセンサーシリーズに、短波の範囲を拡大して短波帯のほぼ全体(3.9-28MHz)をカバーする5バンドとし、BFOを備えた本格的な短波受信機としたモデル、スカイセンサー5800が加わりました。5500の特徴だった縦型のデザインはより強調されたものになりました。価格は5500の1割増し程度と、それほど高額ではありませんでした。
この機種のカタログには「マニアに独占されていた短波放送をすべての人に開放しました」とあります。本格的な短波受信機を安価に、一般に使いやすいものにしようとするコンセプトがあったようです。スピーカもアンテナも内蔵しない高価な通信型受信機に比べれば、はるかに安価で使いやすい一応ゼネラルカバレッジのポータブル短波ラジオという新しいコンセプトの製品の誕生でした。
これに対して松下は翌年、クーガ・シリーズに、より本格的な6バンド短波受信機クーガ118を発売しましたが、本格的過ぎて価格が4万円を超え、スカイセンサー5800の2倍以上となっては、さすがにビジネスとしては成功しませんでした。
スカイセンサー5800やクーガNo.7、118の発売当初の資料を見ると、まだ「
BCL」という言葉が使われていないことがわかります。発売された時点では、まだ「BCLブーム」は始まっていないし、「BCLラジオ」という言葉はなかったことがわかります。
ここでBCLブームのはじまりについてですが、関係者の証言によれば、後にBCLの伝道師とも呼ばれる存在となった山田耕嗣(1940-2008)と、『ラジオの製作』などを発行していた電波新聞社、スカイセンサーを発売していたソニーなどの関係者の思惑が一致してブームを巻き起こしたと考えられます。「BCL」という用語については、山田氏が当時のラジオの製作編集長、大橋太郎氏と相談して選んだものだという。ハムの免許を取る前の練習と位置付けられていた「SWL」に対して、1920年代に、アマチュア無線に対して放送を受信することを目的とする趣味に付けられた「BCL」という古い用語を、海外放送を受信する趣味の名前として復活させたのだとのこと。BCLブームの仕掛け人を挙げるとしたら、山田氏と大橋氏ということになるでしょう。
電波新聞社以外では、クーガ118が発売された1974年末に『短波放送入門』(三木宮彦著 二見書房 サラブレッド・ブックス) という一般向けの本が、当時人気があったカッパ・ブックスと同じ体裁のシリーズで出版されました。著者はNHK職員で国際放送のプロデューサーでした。子供向けではありませんが、文体は若年層(いわゆるヤング)を意識したものになっています。この本の本文では主に長距離受信を示す"DX" が使われています。受信の技術面よりは海外放送の面白さ、日本語放送の存在、「ベリカード」の魅力など、後のBCLブームの要素を広く紹介しています。著者がSWLマニアではなく、放送局職員だったからでしょう。
12月27日という年末ぎりぎりに初版が発行され、年末年始をはさんだ翌75年1月末には再販されています。半年後には表紙をクーガー115に変更し、第6版になっています。かなり売れたのでしょう。このシリーズには、オカルト・ブームの中で中高生の間で話題になっていた『恐怖の心霊写真集』(中岡俊哉著)や、南山宏のUFOの本などもあり、この本も書店の書棚で若年層に注目されたと思われます。
この本の巻末のラジオの紹介の中では、スカイセンサー5800の項に「BCLブームの推進力になった、スカイセンサーシリーズの最傑作」とあります。初版を確認していませんが、1974年末から1975年初めころにはそろそろ「BCLブーム」が始まっていたことがわかります。ほかに紹介されているのは3バンドのクーガNo.7、サウンド750GS、3バンドラジカセのジーガムJR-5500 しかありません。表紙にはクーガ118が描かれていますが、さすがに高価なので紹介していないのでしょう。第6版にはクーガ―115が追加されていますが、初期の段階では本格的なポータブル短波ラジオはスカイセンサー5800だけだったことがわかります。
ブームの中心にいたのは小学校高学年から中学、高校生でした。2万円のラジオはかなり高額なものですが、多くの親戚からお年玉をもらえるようなら、購入も不可能ではありませんでした。BCLラジオを買ってもらえなくても、家庭で広く使われていた60年代の2バンドラジオで短波を聴くことは容易でした。小中学生では当然外国語の放送を理解するのは難しいので、対象は国内の遠くの中波局か、まだたくさんあった海外の日本語放送ということになります。彼らの目当ては受信報告書の返事として贈られる「ベリカード」でした。
結局、無線の技術を高めるというよりも、多くの少年が夢中になる「カード集め」が目的になってしまったところにこのブームの限界がありました。
1975年6月には『世界の放送ーBCLのすべて』(野口実 赤林隆仁著 ニッポン放送編 国際コミュニケーションズ) が出版されました。著者はベテランのSWLマニアですが、中波放送局が編集にかかわっている点を見ても、この時点ではもう「ブーム」になっていたと思われます。
BCLラジオの発売ラッシュ
こうしてブームとなって本格的な「BCLラジオ」が発売されるようになりました。松下は、従来の3バンドのクーガNo.7とRF-888の2機種のデザインを合体し、ジャイロアンテナを備えた感度重視のNo.7のデザインを生かし、短波を3バンドとした本格的な短波受信機とするだけでなく、大型スピーカ採用によるオーディオ性能というクーガRF-888の特長も生かした、より多機能でリーズナブルな価格としたクーガ115を発売しました。クーガ118よりもだいぶ安くなりましたが、ほぼ同じ機能のスカイセンサー5800よりは3割ほど高価でした。
同じ1975年にソニーからスカイセンサー5900が発売されました。
とりあえず普通のラジオをオールウェーブとした感があった5800に対し、本格的なダブルスーパーやギヤダイヤルを採用して10 kHz直読とした機種。本格的にした分、価格も上がってしまったので、廉価版として5800も継続販売されました。広告を見ると、スカイセンサー5800も含めてBCLラジオと位置付けられていることがわかります。
本来ならスカイセンサー5900とクーガー115がライバル関係になるはずですが、安価なスカイセンサー5800の製品寿命が長く、値引きが少ないソニー製品に対して、ナショナル製品のほうが実売価格が5800に近かったこともあってクーガー115とスカイセンサー5800が、ライバル同士として最も有名なBCLラジオの双璧となりました。
いつもそうですが、一度流行する製品が見つかると雪崩を打って他のメーカが進出してくるというのが日本の電機業界の悪いクセですが、BCLラジオの場合も例外ではなく、各社から似たような製品が発売されました。
ここに紹介した以外に、日立の「サージラム」などがありました。特にシリーズ名はなかったのですが、ビクターからもBCLラジオが発売され、多くのメーカからBCLラジオが発売されました。
1970年代前半、文字で書かれたものを除けば情報源としてはテレビ、ラジオくらいしかありませんでした。最新の音楽の情報はラジオからもたらされ、良い音のFM放送は重要な音源でした。レコードは高価だったのでFM放送からカセットテープに録音することが良く行われました。このために「ラジカセ」がブームになりました。
というわけで、BCLブームの絶頂期には、いささか悪乗りともいえるこんな商品も現れました。ラジカセのラジオ部をBCLラジオ並みの5バンドにしたBCL 用ラジカセ。売れたかどうかはわかりません。ここまで本格的ではなくても、3バンドや4バンドの短波を受信できるラジカセは各社から発売されていました。
BCLラジオが各社揃ったころ、ブームは最高潮に達しましたが、その直前の1975年10月1日に「日本BCL連盟」が発足し、機関誌『短波』(当初隔月刊、第3号から月刊)が創刊され、人気となりました。
このほかに初心者向けの技術誌で、BCLブームの火付け役でもあった『ラジオの製作』だけでなく、ライバル誌の『初歩のラジオ』なども盛んにBCLを取り上げ、メーカがスポンサーとなるBCLに関するラジオ番組がNSBだけでなく、中波局でも放送されました。
BCLラジオに飽き足らない層には、アマチュア無線機器メーカが作る本格的な通信型受信機がありましたが、高価でどちらかというとアマチュア無線に特化した機能が多く、ハムを目指す一部の層にしか売れませんでした。
通信型受信機といえば、アマチュア無線機器の最高峰、米コリンズのSラインがありますが、さすがに高価すぎてBCLではほとんど使われませんでした。これに対して米国製ではドレークの製品は正式に輸入されました。
米国製のドレークは正規輸入されたといっても20万円を超える高価なもので、普通のBCLには手が届かないものでしたが、輸入商社が国産化した日本専用モデルSSR-1は、8万円程度で発売されました。
比較的安価な通信型受信機として、トリオの組み立てキットのブランド"Kencraft" からRQ-666型が定価49,800円で発売されました。これには完成品もあり、59,800円でした。
これをマイナーチェンジしてTRIOブランドの完成品として発売したのがR-300型です。BCLラジオよりは高価ですが、本格的な通信型受信機としては安価で、ヤエスのFRG-7と並んで人気がありました。
アメリカ向けの「マルチバンド・ラジオ」については70年代に入っても輸出されていました。大手メーカが国内の主力製品をBCLラジオとした後も輸出専門の中小メーカの製品の一部が日本国内でも販売されていました。
このマルチバンドラジオは逆輸入ではなく、日本仕様です。一般の少年誌や週刊誌などにも広告が掲載され、おもに通販で売られていました。「シークレットブーツ」や「ブルワーカー」などと並んで広告が出ていたので怪しい雰囲気満点でした。BCLラジオよりは少し安い価格で、紹介したモデルは19,000円くらいでした。安っぽい作りですが、実際にはそこそこ実用になります。
BCLラジオの世代交代
スカイセンサー5800、クーガーNo.7で始まったBCLラジオですが、より本格的な短波受信機を目指してモデルチェンジされました。1976年には松下から本格的なBCLラジオ「クーガー2200」が発売されました。クーガ118の後継機種といえます。
BCLラジオの傑作機といわれる本格的なモデルです。118よりは安くなりましたが、115よりは高額になってしまいました。ソニーが5800を残したように、似たデザインながら機能を抑えた廉価版のクーガー101 (21,000円)が用意されました。
1976年後半から、徐々に高級化が始まり、5900にカセットを内蔵した大型機、スカイセンサー5950 (56,800円)や、据え置き型の高級機スカイセンサー6800 (79,800円)が発売されました。インフレの時代で発売当初は1万円台だった5800も2万円を超えました。
BCLブームの終わり
1980年代に入ると、BCLブームにも陰りが見えてきました。理由としては先に説明したようにブームの内容が主に少年たちの「ベリカード集め」だったこと、小中学生では主な日本語放送局を聞いてしまえば、それ以上に海外放送に興味を深めることは難しかったことなどがあげられます。
かつてはSWLを奨励したJARLも、家電メーカが中心となったBCLブームには冷淡で、アマチュア無線につなげようとする動きもありませんでした。
くわえて、受信機が高機能になって高価なものとなり、中高生にはなかなか手が出ないものになっていたことも理由の一つかもしれません。彼らがアルバイトや就職で自分のお金を使えるようになるまでにはもう少し時間が必要でした。
月間『短波』も1983年に休刊となりました。少年たちに代わって、対象は大人となり、BCLラジオはスカイセンサー、クーガーの上級のラインであるソニーの「ワールド・ゾーン」、松下の「プロシード」に中心が移っていきます。
本格的なポータブル短波ラジオの「ワールド・ゾーン」は、BCLブームに関係なく孤高の存在としてありましたが、あまりにも高価で一般向けではありませんでした。
「ワールド・ゾーン32」はシリーズの最高級機種で、スカイセンサー5800を1ダースまとめて買えるほどの高価格では、ちょっと手が出るものではありませんでした。
クーガーの上級ラインとなるプロシードは、高機能なだけでなくデザインも落ち着いた重厚なものになっていました。デジタル表示がありますが、アナログ式のラジオにカウンタが付いただけのものです。
しかし、皮肉なことに,1970年代末にマイコンが実用化されたために、ブームが去ったころからより使いやすい高性能な短波受信機が現れました。
PLLシンセサイザーとマイコン制御を本格的に取り入れ、デジタル表示とテンキーによるダイレクト選局とUP/DOWNキーを採用し、受信機の顔ともいえるダイヤルや丸いつまみを廃した未来的な受信機。FMとAMの2バンドといってもAMは150kHzから29.999MHzまで連続でカバーするゼネカバ仕様です。ソニーらしい大胆な設計ですが、やはり同社らしく品質や機能面で問題があり、次機種のICF-2001Dで安定して使いやすいものになりました。実際に運用するときは寝かせて使用します。翌年、松下から対抗する機種が発売されました。
同じくPLLシンセサイザを採用した機種ですが、大型の同調つまみやバンドスイッチを残して受信機らしい操作性となっています。保守的なデザインですが、このほうが使いやすいといえます。こうしてみるとソニーの翌年に松下が少し高い価格で対抗馬を出すという流れがあったようですね。
短波放送の衰退
この後、デジタル技術の進歩と部品の小型化によって短波ラジオも小型で使いやすいものが現れました。1990年代に入るころまで、インターネットも携帯電話もない時代、海外に出ると、BBCやラジオジャパンなどの国際放送は情報収集の重要なツールでした。このため、海外駐在や出張の際は短波ラジオが必須のアイテムでした。
しかし、1990年代に入って東西冷戦が終結し、政治宣伝目的の外国語短波放送はその多くが中止されました。日本語放送もその例に漏れず、BBC(1990年)、ラジオ・オーストラリア(1990年)、ドイチェ・ヴェレ(1999年)、バチカン(2001年)など、BCLファンに馴染み深い局の多くが放送を中止しています(カッコ内は終了した年)。
NSBは1978年に局名を「ラジオたんぱ」に変更しました。2001年以降は、規模を大幅に縮小し、放送時間が減らされました。その後2003年10月には社名を「日経ラジオ社」に変更し、愛称を「ラジオNIKKEI」として日本経済新聞社および東京証券取引所を主要株主とする経済情報および競馬中継の専門局として現在まで続いています。ただし、ネット配信など、新しいメディアの活用が増えてきたことで、短波放送の比重は下がってきています。
現在では短波ラジオは本格的な通信型受信機を除けば、ラジオNIKKEI専用機および海外旅行用として一定の需要を満たしていますが、ネットで海外のローカル放送や遠隔地の民放ラジオが容易に聞ける時代になり、短波放送の重要性は以前より低下しています。しかし、ネットにはインフラが必要なこと、ネットの利用が制限される国が存在することなど、国や地域によってはBBCなどの短波放送が重要な情報源となっていることもあります。
かつての冷戦時代に盛んだった日本語放送は、現在韓国、北朝鮮、中国、台湾など近隣諸国を中心に残っていです。東アジア地域に冷戦構造が残ってしまっているからでしょう。
ネットで世界中の放送局を聴けるようになりましたが、アンテナと受信機を整備して遠くの放送局を受信するBCLは、かつてのようなブームは去りましたが、アマチュア無線とは異なる無線の趣味の1分野として大人の趣味となって楽しまれています。
出展目録
ポスター
館長の独り言
今回の企画展では、BCLラジオを中心として、戦前からの短波受信の歴史を展示します。
私はそろそろ還暦(2023年現在)、ちょうどBCLブーム真っただ中に中学生時代を過ごしていました。しかし、2万円を超えるようなラジオを買ってもらえるわけがなく、家にあった古い2バンドトランジスターラジオの小さな同調つまみを慎重に動かしながらBCLのまねごとをするだけでした。
(買ってもらえなかったスカイセンサーやクーガーは、後で学生時代に少しお金を使えるようになってからリサイクルショップなどで購入しました。何とか音が出るものが3千円くらいでした)。
ただ、中学生のころから古いラジオが好きだったので、1978年頃、近所の家で捨てるという電蓄をもらってきて修理しました。
本来レコードを聴くための電蓄ですが、かなり本格的な2バンドスーパーが組まれていてよい感度で受信できました。この頃、ちょうどNHKテレビのニュースセンター9時(NC9)で、「北京放送が重大な放送をする」と言っていたので、この電蓄で北京放送を受信してテープレコーダーのマイクまでセットして頑張ったのですが、人民代表大会の委員の名前をひたすら読み上げる退屈な放送が続いただけ・・・今ではよい思い出です。しばらくは電蓄の前にあぐらをかいてダイヤルを操作するBCLのスタイルでした。キャビネットの状態が悪かったので実家の建て替えの時に箱は捨ててしまいましたが、シャーシはまだ保管しています。
BCLラジオは欲しかったのですが、やはりトランジスターラジオよりは、鉄の箱に入った真空管式の受信機のほうが好きでした。電蓄BCLを始めた数年後、近所のハムをやっていた電気屋さんが機材を整理するときにトリオの9R-59を譲ってもらうことができ、これがBCLのメインの受信機となりました。調子が悪かったのですが、その頃には見よう見まねで5球スーパーの修理ができるようになっていたので、渋谷にあったトリオの本社に行って組立説明書のコピーを出してもらって修理しました。1980年代に入ったころの話ですから変な高校生だったわけです。こんなこともあって同時代のBCLラジオにはそれほど詳しくありませんので、今回の展示には、当時BCLに取り組んでいた友人の助けを借りました。
今ではデジタルコントロールの新しい受信機も持っていて、確かに性能が良くて便利なのですが、重くて重厚な受信機らしい昔のラジオのほうが好きです。というわけで、かつてあこがれたSUPER PROやハリクラフターズSX-28、軍用のBC-348などの骨董品をいじっては楽しんでいます。
さすがにスーパープロやSX-28は大きくて重すぎるので、実用にはハリクラフターズの中級機が手ごろで愛用しています。整備すれば70年前の受信機とは思えない性能で、十分実用になります。