ラジオ放送開始百周年記念展
はじめに
2025年は、日本で放送が始まって100周年の節目の年となります。当館では、100周年記念の企画展として、アメリカで放送が始まる前から日本で放送がはじまるまでを取り上げたいと思います。タイトル写真は1926年の大阪放送局放送開始1周年の記念絵葉書です。
企画展概要
開催場所:日本ラジオ博物館企画展示コーナー
開催期間:2025年3月15日(土)~12月14日(日)
開館日:土日祝日
GW期間:4月26日~29日、5月3日~5月6日
夏休み期間:8月9日~17日
無線からラジオへ
電波の利用がはじまってからの初期の無線については、「ラジオのはじまり」展ですでに紹介しました。無線通信の初期にはモールス符号による「無線電信」、後に音声での通信が可能となると「無線電話」も実用化されましたが、いずれも特定の相手方に対する1対1の「交信」が基本の形でした。
軍用や船舶などの業務無線だけでなく、アマチュア無線も盛んになり、その中には初期の無線電話で、音楽やおしゃべりを送信する者も現れました。カナダのフェッセンデンや、のちに三極管の発明で知られるドフォレストなどもラジオのような無線電話を行ったひとりです。受信機については、鉱石検波器を使用すれば電信も電話も聴取することができました。
アマチュアはこんな立派なものではなく、簡単な鉱石受信機を自作しました。
この時代、ラジオ放送のような無線電話の実験が行われましたが、現代のマスメディアとしての「放送局」とみなすことはできません。あくまでも実験が目的で、本来は「交信」したかったのかもしれませんが、真空管で電波を発信する「送信機」は技術的な難易度が高く、部品も高価でした。多くのアマチュアは火花式の電信で交信していましたが、受信機は電話も受信できたので、無線電話の実験送信を受信することはできました。1対1の交信を目的としていても、電波はだれでも受信できます。初期の無線電話は、受信者ばかりいて送信者が少なすぎて、一方通行にならざるを得なかったことから、思いがけず放送のような形になったと考えられます。
ラジオ放送のはじまり
アメリカの電機メーカ、ウェスチングハウスに勤めていたフランク・コンラッドもアマチュア無線を楽しんでいた一人でしたが、彼はその仕事柄、会社の最新の真空管式の無線機を使えました。彼は、アマチュアたちと交信するだけでなく、音楽をかけたりニュースのようなものを喋ったりするようになりました。この「放送」が人気となり、受信するための簡単な鉱石ラジオがデパートなどで販売されるようになりました。
雇い主のウェスチングハウス社は、戦争が終わって無線機の需要がなくなって困っていました。そこでコンラッドの無線局の人気に関心を持ち、自社のラジオ受信機の拡販のために正式な放送局(コールサインKDKA)を設立し、ラジオセットを市販するようになりました。1920年のことです。KDKA局の開局をもって、ラジオ放送のはじまりとされています。
KDKA以外にもラジオ放送のようなことを実施していた無線局はいくつもありましたが、この局が世界初の放送局といわれるようになったのは
・大衆向けに定時放送を行った
・ラジオの拡販や広告放送という、商業目的を持っていた
という、現代の民間放送に通じる特徴を備えていたことによります。
これ以降、放送局が増えていきますが、まだラジオの受信はアマチュア無線家を中心としたマニアの趣味の域を超えていませんでした。当時のラジオの広告には、ラジオというよりアマチュア無線用受信機のような説明があります。
この頃、火花送信で「交信」するアマチュア無線家に対して、放送の受信だけを目的とする人々が現れました。アマチュア無線家たちは、このような人たちのことををBCL(Broadcasting Listener) と呼びました。1970年代に日本でブームになった「BCL」は、アマチュア無線界で受信専門のオペレータを示す一般的な用語だった「SWL」に対して、BCLという古い言葉を復活させて差別化したものです。
ラジオの大衆化
KDKA局の開局は、アメリカ大統領選挙に合わせて行われました。ラジオ放送は、マニアの技術的関心の的から、番組内容への大衆の関心の高まりとともに、アマチュア無線家のシャック(*)からリビングルームに置き場所が移っていきました。
*)アマチュア無線家が、納屋やガレージなどに機材を設置したことから、小屋を意味するシャックが、アマチュアの無線室を示す言葉となった
ちょうどこの頃、自動車の量産に始まって、アメリカの家庭が、工場で大量生産される工業製品を受け入れる社会になっていきました。アマチュアが手作りするものと、少量の業務用のみだったラジオ生産が、家庭向けの大量生産品に変貌していきました。
これはRCAの初期の家庭用受信機です。本来は別々に発売されていたチューナー兼用鉱石受信機AR-1300(左側)と真空管式検波増幅器AA-1400(右側)をセットにしたもの。真っ黒なパネルだったマニア向けの機器に木目塗装を施し、木製の台と蓋を取り付けて、何とかリビングルームに置けるように仕立て上げたもの。鉱石検波と真空管検波の2種類の検波器を備えるという奇妙な構成になりました。
1924年以降、アメリカのラジオの生産は急増し、家庭に普及していきます。
これはアメリカ製の普及型ラジオです。部品点数を抑えてシンプルにまとめた本機は、日本に大きな影響を与え、多くの日本製のコピーを生み出しました。
アメリカのラジオの混乱
アメリカのラジオは急速に発展しましたが、当時のアメリカの法規は、無線局の数を制限するものではなく、民間の放送局が急速に増加しました。ただ、放送ではなく無線通信であれば、自分が話す時だけ電波を出して交互に通信するPush to talk 型なので、同じ周波数を使っても問題ありません。このイメージで最初は一つの周波数を放送に割り当てました。しかし、放送はひたすら電波が出ています。同じ周波数で200も放送局ができて電波を出したら混信するのは当然のことです。もっと悪いことに「混信対策」として資金力のある局は送信出力のパワーアップに努め、弱肉強食のカオスとなりました。
すべて民間放送というアメリカのやり方は、現在でも世界的には特異なやりかたですが、きちんと周波数割り当てが行われ、現在の3大ネットワークを中心とした広告放送で運営するスタイルに落ち着くにはまだ10年くらいの時間が必要でした。
各国でラジオ放送始まる
その他の国々でもラジオ放送が始まりましたが、先行していたアメリカの放送事情を調査した日本を含む各国は、この混乱した状況を見て国家の規制が必要という結論になり、国営または公共放送が一つだけという体制になりました。フランス、ドイツ、イギリス、ソ連で1922年に放送が始まりました。イギリスは公共放送BBCのみに放送が許され、ラジオもイギリス国産の、許可を得て「BBCマーク」を付けたもののみ使えるとされました。
BBCマークを付けた鉱石受信機の一つ。国土が狭く、平坦なイギリスでは、全国で安価な鉱石受信機で受信できるように放送局を設置しました。これはのちに日本の「全国鉱石化」に影響を与えることになります。1924年までに欧州の主要国で放送がはじまりました。
日本のラジオのはじまり
アメリカでのラジオ放送の開始が伝わると、日本でも関心を呼びました。特に関心を示したのは新聞社でした。新聞社の本社と博覧会場や百貨店の催事場などに送信機と受信機を設置してラジオの送受信のデモを行いました。
この無線局は期間限定の知識普及を目的とした臨時局として正式に許可されたものです。1922(大正11)年に東京日日新聞、東京朝日新聞が行ったものが早く、その後、大新聞だけでなく、各地の地方新聞社も同様の公開実験を行った。マスコミとして速報性の高いメディアへの取り組みを示したものです。
当時の日本にはアマチュア無線の概念はなく、研究者や愛好家が個人で開局した送受信可能な無線局は実験局として許可され、受信専用の施設は正式な無線局とは認められませんでした。これは、軍用や公用などの無線を傍受することは目的外の電波利用とされ、不許可となったからです。
許可されないといっても、アマチュアの間でラジオを作るものは少なくありませんでした。ラジオ放送がまだない時代、ラジオの公開実験の他は官営無線局の信号しか受信するしかありませんでした。先述のように大半の受信施設は不法無線局でした。輸入品を中心とした市販の部品は極めて高価で、多くのアマチュアは部品から自作しました。戦前にアマチュア無線局JXAX(後のJ3CB、JA1HAM)を開局した草間寛吉氏が製作したと伝えられる単球受信機を紹介します。
ごく初期の真空管(De Forest社の商品名からオーディオンバルブと呼ばれた。日本では真空管ではなく、真空球と呼んだ)を使用した受信機です。ウルトラオーディオン回路は長波が主流だったころによく使われた再生検波の回路です。パネルの中央の大型のホルダにチューブラー型オーディオンを装着し、上下のターミナルにリード線を接続して使うものです。この時代は部品が極めて高価だったために、真空管以外のほぼすべての部品を自作しています。通常、樹脂で作られるバリコンの絶縁板に木材が使われ、パネルやキャビネットはもちろん、ツマミも木材で手作りされています。ツマミの文字盤や目盛りは手書きです。
真空管は失われていますが、上の写真のような形状の真空管を使ったと思われます。
政府でも1922年にはラジオ放送の検討が始まり、海外の事情の調査が行われました。ただ、この時はまだラジオ放送が正式に始まっていたのは米国だけでしたので、調査の対象は米国のラジオ事情でした。調査の結果、米国の放送が民間放送のみという形態だったことや、娯楽や芸能などの放送があることから官営にはなじまないということで、日本でも放送は民間会社で行う方針が決められました。
ラジオ放送の開始に向けて、当時の逓信省での検討が進み、8月30日には、「放送用私設無線電話に関する議案」が委員会にて異議なく可決されました。しかし、そのわずか2日後、世の中を変える大災害が発生します。
1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾沖を震源とする大地震が発生しました。関東大震災です。東京、横浜をはじめとする沿岸の主要都市が壊滅的な被害を受けました。
警察署、新聞社、電報電話局などの多くが壊滅し、被災地は情報が途絶し、流言飛語がはびこり、多くの事件が発生しました。これに対して東京湾に停泊した船舶の無線で被災状況が海外に伝わり、迅速な救援活動につながりました。政府は、地震で壊滅した有線の電信電話の復旧を優先しましたが、放送があれは混乱を抑止できたのではないかとのの世論が盛んになったことで、放送開始の優先順位が上がり、急ピッチで準備が進み、震災が起きた年の年末、1923年12月20日には「放送用私設無線電話規則」が制定されました。
放送の開始へ
日本でも当初はアメリカの制度を参考にしたものの、その後の混信などの問題を知り、1922年に始まった英国、フランスなどヨーロッパの放送制度を参考にして、日本の制度は民間会社が放送局を運営するものの、多くの申請者を整理し、東京、大阪、名古屋の3か所にそれぞれ1つだけ許可し、全体としては聴取料で運営する英国の制度に近いものになりました。東京放送局のみ株式会社として設立されましたが、政府の方針の変更で公益法人に限ることになり、1924(大正13)年11月29日に東京放送局(JOAK)、翌25(大正14)年1月10日に名古屋放送局(JOCK)、同年2月28日に大阪放送局(JOBK)が社団法人として設立されました。
この時の社団法人は、後の社団法人日本放送協会を含めて新聞社や地元の実業家などが出資したもので、現在の放送法に規定された特殊法人としての日本放送協会とは性格が異なります。
受信機は、イギリスのBBCマーク制度を参考にして、逓信省の型式証明を受けたものしか使えないことになりました。技術レベルの低さから、さすがに国産に限るとはされませんでした。型式証明の取得には費用がかかり、また、特殊な技術基準を要求したことからラジオは非常に高価なものになりました。はるかに優秀でありながら大量生産の効果が出ていた舶来品より割高という始末でした。
電話機や通信機を生産していたメーカから型式証明受信機が発売されましたが、この制度への批判は強く、先行していたイギリスでもBBCマーク制度は、自作受信機を使用する実験局免許という抜け道によって制度疲労を起こし、徐々に緩和され、1924年から25年1月にかけて廃止されました。
日本でも英国同様、アマチュアの自作受信機を合法的に扱う必要性から規制緩和が進み、1924年2月26日には、型式証明のない受信機でも聴取許可を受ける道が開きました。
放送のはじまり
東京放送局は放送開始前の1925(大正14)年2月16日から聴取者の募集を開始し、3月1日の放送開始を目指して仮放送所として東京工芸学校から借りた建物で準備が続けられました。急造の設備の完成度の低さから当局の落成検査に合格せず、3月1日から試験放送が始まり、日本で初めての放送電波が送信されました。
そして同年年3月22日、仮放送という形ではありましたが正式に放送が開始され、日本のラジオ放送の歴史が始まりました。出力はわずか220W、この時の聴取者数はわずか5,455でした。当初月額2円というかなりの高額を予定していた聴取料は、試験放送中は無料、仮放送中は1円とされ、本放送に移行してからも1円が維持されました。同年6月1日からに大阪が仮放送(500W)を開始、7月12日には東京放送局が愛宕山に移り本放送を開始、7月15日に名古屋が本放送(1kW)を開始しました。
当初はラジオが高価だったために、70%が簡単な鉱石ラジオでした。このため、イギリスにならって鉱石ラジオで広いエリアで放送を聴けるようにするという「全国鉱石化」計画が遂行され、全国展開のために3つの放送局は半強制的に統合され、社団法人日本放送協会が設立されました。その後のラジオの普及と、国産化による真空管式ラジオのコストダウンは著しく、1929年には鉱石式と真空管式のシェアが逆転し、無理に全国鉱石化をする必要はなくなりました。
都会に住んでいた多くの庶民(といっても中流でしたが)は、鉱石ラジオで放送を楽しんでいましたが、地方の富裕層や実業家は、株式市況などの情報を得るIT機器として、家が建つほどの超高価な舶来品の高級受信機で離れた放送局の放送を聴いていました。
東京では放送が始まった年のうちに聴取者が10万を超え、年末に昭和になった1926年には39万に激増しました。
ポスター
準備中
出典目録
準備中
館長のひとりごと
2025年は、日本でラジオ放送が始まって100年の節目の年です。2022年に開催した「ラジオのはじまり」展は、人類が電波を使い始めてから放送がはじまるまでの、20世紀初頭から20年代までの長い期間を取り上げましたが、今回の企画展は、アメリカで放送が始まる少し前の1915年頃から日本で放送が始まる1927年頃までを取り上げます。
100年以上前のラジオは、現代とは似ても似つかないものですが、特にアメリカでの歴史を振り返ってみると、アマチュアの手作りから歴史がはじまり、特許を武器にしたビッグビジネスが市場を席巻し、大量生産された機器が家庭やオフィスに普及していくという過程は、1970年代のパソコンや90年代のインターネットの歴史とも重なる部分が多いように思います。
そして、20年代の好景気の株ブームの中で、当時最新のハイテクであったラジオのメーカの株式が「ラジオ株」として人気になり、29年の大暴落を迎えました。これも残念ながら、「ドットコムバブル」のときのIT企業株の人気と暴落とに重なります。技術は進んでいるようでも人間というのはたいして進歩しないようですね。
12月15日に閉館してから具体的な展示にかかります。このnoteも更新していきます。